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品数こそ多くは無かったが、飲みながら話ながらゆっくり食べていたら二人とも結構お腹が満たされてきた。
「鯛茶漬け、そろそろ頼みましょうか?」
「はい」
和也が頷いたので、大石は店主に鯛茶漬けを注文した。料理は全てたいらげ、二人の手元には残りが少なくなった水割りとロックのグラスがある。
水割りとはいえ、元々の度数が高いため2杯目の和也は頬が紅潮していた。大石も2杯目で少なからず酔いは回っていたが顔には出ないタイプらしく、平然としている。
「はい、鯛茶漬けお待たせ」
残りの焼酎を飲み切ったタイミングで店主が鯛茶漬けを目の前に置いた。
美しく盛り付けられた茶碗の中に熱々の出汁をかけ回し、サラサラと流し込めば初めて食べた時の感動が蘇る。満腹が近いのに、いくらでもたべられそうだ。二人はあっと言う間に完食した。
「あぁ、美味しかった…」
「ごちそうさまでした」
二人は満足そうに溜め息をついた。
お腹も心も満たされて、幸せな気持ちになる。
「ありがとうございました、全部美味しかったです」
和也が店主に伝えると、老婦人は笑顔で「こちらこそ、ありがとうね」と言う。
「お勘定を…」
「それならさっき大石さんから頂いたよ」
「えっ」
和也が驚いて大石の方を見ると、何事も無かったかのように「行きましょうか」と立ち上がりコートを羽織っている。先程和也がお手洗いに立った時にお勘定を済ませてしまったようだ。
「ちょっと待って下さい、半分出します!おいくらでしたか?」
「いやいや、今日は結構ですから。おかあさんご馳走さま」
「あ、ちょ…待って下さい!ごちそうさまでした!」
「はぁい」
店主に挨拶すると、和也は店を出る大石を慌てて追いかけた。
「大石さんすみません、ご馳走さまです」
「いえ。楽しかったですね」
並んで歩きながら、大石に気付かれないように和也はチラリとポケットのスマホを確認した。23時過ぎ。遅い時間だと分かっていたが、明日はお互い休みだ。まだ楽しいを過去形にしたくなくて必死に繋ぎ止める言葉を考えていると、大石が腕時計を見て呟いた。
「23時過ぎか…」
「あの…家に来ませんか?」
「えっ!いやいや、そんなご迷惑をかける訳には…」
夜遅くに飲み歩く事などない和也はこんな時間に開いているような店は知らず、何とか繋ぎ止めようと出た言葉に大石は驚いた。
「迷惑も何も僕しか居ませんし、ご馳走になってしまってこのまま解散するのも申し訳なくて…」
和也は気付くと大石のコートの袖に触れていた。
大石は躊躇ったが、必死そうな様子の和也にとうとう折れた。
「…分かりました」
「ありがとうございます」
パッと和也の表情が明るくなった。
大石は申し訳ないと思う一方で、まだ一緒に居られる事を嬉しいと思ってしまう自分に戸惑い、困ったように微笑んだ。
「…お邪魔します」
和也の家を訪れるのは2回目だった。
「こちらにどうぞ」と案内されたリビングテーブルの椅子に荷物を置くと、和也がハンガーを持ってきた。
「すみません」
「いえ」
大石からコートを受け取るとハンガーにかけ、エプロンなどがかかっているキッチン近くの壁掛けフックにかけた。そのままキッチンに入り、何か作業をしている。大石はその様子をカウンター越しに見ていた。
視線に気付いた和也が作業する手は止めずに、大石に話しかけた。
「甘酒は飲まれますか?」
「甘酒、ですか…普通の酒は飲むんですが…甘酒は…」
「苦手?」
「はい」
申し訳なさそうに答えると、和也は微かに微笑んだ。
「大丈夫ですよ。男性の方は苦手な方が多いんです。あの甘さと、独特な風味がね。僕も得意ではないです」
「えっ、先…和也さんにも苦手なものがあるんですか?」
大石が驚くと、和也は可笑しそうに笑った。
「そりゃぁ、ありますよ。でも、苦手だけどどうにかして美味しく食べたいなぁって、これを作ったんです」
そう言って大石の目の前にスプーンを差し出す。そのスプーンの上にはクリーム色のアイスのような物が乗っていた。
「これは…?」
「甘酒を使ったアイスクリームです。味見してみて下さい」
躊躇いながら大石はアイスを口に含む。
「…美味しい!」
和也は微笑んだ。
「苦手なものも、工夫次第で美味しく食べられるんですよ。食べてみなくちゃ分からないでしょう?」
大石は大きく頷いた。
独特な風味と甘みは生クリームでまろやかになり、甘さも抑えられて美味しい。これなら甘酒が苦手な人でも食べられるだろう。
大石が食べられることを確認した和也は、アイスを小さな硝子鉢に盛り付けると熱い緑茶と共に二人がけのダイニングテーブルに運んだ。
「これぐらいしかお出しできませんが…」
「いえ!充分ですよ!ありがとうございます!」
まさか手作りのデザートが食べられるとは思わず、大石は嬉しそうに微笑んだ。
「「頂きます」」
ひんやりと甘さ控えめのアイスを口に含むと、身体の火照りがすっとひいていく。
「しかし何でまた、甘酒のアイスを?」
あっと言う間に食べ終え、熱い緑茶をすすりながら大石は不思議そうに聞いた。そもそも、苦手な甘酒が何故和也の家にあるのか。
「久しく飲んでいなかったんですが、数日前に母のアシスタントの紀子さんが沢山仕込んだからと、お裾分けを戴いたんです。それで、せっかくだから美味しくいただきたいなと思って」
「なるほど…!これなら美味しくいただけますね」
大石が微笑むと、「気に入って頂けたようで良かったです」と和也も嬉しそうだった。
「先程から気になっていたんですが…後ろの棚にあるファイルは、もしかしたらレシピ集ですか?」
向かい合わせに座る和也の後ろには腰上くらいの高さのカラーボックスが壁に沿って置かれており、ファイルや本が綺麗に並んで収まっていた。3段ある棚の一番上に、『レシピ集』と背表紙に書かれたファイルが20冊以上並んでいる。
「見ますか?」と言いながら和也はカラーボックスから2、3冊引き抜き、机の上に出す。
「ありがとうございます」
綺麗にファイリングされたそれは、大石も見慣れた料理教室で配布されているレシピのバックナンバーだった。ただ一つ違うのは、そこかしこに和也のメモが書かれている所だ。
大石がゆっくり捲りながら見ていると、和也が新しい熱いお茶を淹れてきてくれた。
「すみません、ありがとうございます」
「何か気になるレシピはありましたか?」
聞きながら、和也も自分用に新しく淹れたお茶を口にする。
「どれも美味しそうで、作ってみたいものばかりです」
大石は顔を上げ和也の顔を見た。
「…しかし、あの発表会で和也さんの知名度が上がって人気が出て…レッスンの予約を取るのが更に難しくなってしまいましたね」
「喜ばしい事なのですが、いち生徒としては複雑な心境です」と困ったように笑った。
「ならお休みの日に、家に来て一緒に作りませんか…?」
突然の提案に、大石は慌てて手を振る。
「えっ?!そんな、私だけそんな特別扱いを受ける訳には…」
「特別だからです」
「え…」
正面から大石を見詰める和也の顔は真剣だった。
大石は思わず息を呑む。
「僕にとって、大石さんが特別な人だからです…」
和也の震える声、揺れる瞳に大石の鼓動は早くなった。言葉を発せられずにいると、たまらず和也の方が視線を伏せた。
「…大石さんと居ると、安心するんです。でも、それだけじゃなくて…もっと一緒に居たくて…触れたくて…」
「和也さん…」
和也の言う、『特別』の意味を理解して大石は動揺した。
和也の事は尊敬しているし、人として好感を持っている。しかしそれが和也と同じ想いかと言われると、考えた事が無かったので即答出来なかった。
「私も、和也さんの事を人として素敵な方だと思っています」
「僕のはそういうのじゃなくて…!」
顔を上げた和也は、大石の苦しそうな顔を見てハッとした。
「分かっています…しかし、私はそのように和也さんを見た事がありません」
大石は正直に伝え、テーブルの上にある和也の手にそっと自分の手を重ねた。
「私もあなたの事を大切に思います。だから、きちんと考えさせて下さい…」
大石は一つ一つの言葉を選んで慎重に和也に伝えた。彼がどれ程の覚悟で、自分に想いを伝えてきたかがひしひしと伝わってきたからだ。
想いを告げられて改めて考えてると、恐らく自分も和也と同じ気持ちなのだろうと思った。
しかし久しく恋愛をしてこなかったため、和也に対する気持ちがそうだと言い切る事が出来なかった。
歳も50近い上に、同性だ。戸惑いも当然ある。
だからこそ、きちんと考えた上で返事をしたかった。
「私自身…久しぶりの事で…自分自身の気持ちを確認したいんです…」
「…分かりました」
泣くのを必死で耐えているのが、見て分かるほどで。自分が和也にこんな顔をさせてしまっていると思うと、大石は胸が締め付けられた。しかし、今一番辛いのは和也だろう。なるべく早く、返事をしたかった。
「…一週間、下さい」
その言葉に、和也は黙って頷いた。
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