味見をどうぞ

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『今日の献立 •鶏肉と根菜の炒め煮 •ほうれん草の胡麻和え •ワカメと豆腐の味噌汁』 「よし」 キュッ、とホワイトボードに書き上げると、和也(かずや)はペンを置き手洗いをした。 生徒達が来る前に、食材の下処理を済ませておかなければならない。 先ずは根菜を水洗いし、ある程度の長さに揃えて切っておく。今日は、牛蒡、大根、蓮根、人参だ。 ほうれん草は根元に十字に切れ目を入れ、水を張ったボウルの中で振り洗いをしておく。 ワカメは乾燥ワカメを計量し、豆腐はパックから出しバットに移しておく。 生徒達に渡すレシピのコピーが人数分あるか確認も忘れずに。全ての準備を終え時計を見ると18時15分を過ぎていた。夜の部開始は18時30分。ぼちぼち生徒達が来る頃だ。 母であり料理研究家であるの涼子(りょうこ)から独立し、自らの料理教室を立ち上げて2年。初めは母の紹介で来てくれる生徒もいたが、今では自分目当てに来てくれる生徒が殆どになった。 今では涼子の息子と知っている生徒はほぼ居ない。 レッスンは自宅からほど近いキッチンスタジオを借り、週に3日程、昼と夜の2部制で行っている。少人数で手厚く、アットホームなレッスンを心がけている為、定員は8名。お陰様でキャンセル待ちが出るほどの人気だ。 新規、リピーター、主婦、OL、学生…生徒は様々な年齢や環境の人が集り、そういう生徒達と共に料理を作り、会話を聞きながら食事をするのも和也は好きだった。 ―ガチャ 「こんばんは」 この日最初の生徒がやってきた。 何度も受講している常連で、OLの江藤美和(えとうみわ)だ。和也は笑顔で「こんばんは」と挨拶して手元の名簿にチェックを入れると、レシピのコピーを渡す。美和はレシピを見ながら棚に荷物を置き、手洗いをするとエプロンをつけ席についた。 「根菜!これから美味しくなりますね!」 歳は和也より少し下だろうか、アラサーだと嘆く彼女はお一人様を満喫しているが、いつか表れるであろう未来の旦那様の為にと、度々料理教室に顔を出している。 「値段も手頃になるから使いやすいですよね」 「確かに!」 「こんばんは~」 話していると、2人、3人と生徒達が次々にやってくる。今日のレッスンも満員だ。リピーターが7名と、新規が1名。 美和に習い、入ってきた生徒達は荷物を棚に置くと、手洗いを済ませエプロンをつける。席は毎回自由だが、何となく皆前回と同じ席に座り手渡されたレシピを確認していた。 和也は時計を見た。もう少しでレッスン開始時間だ。 (来ない…) 唯一の新規である生徒が、まだ来ていない。 初回は簡単な説明があるため、5分前には来てほしいと予約の際に伝えていた筈だが。 ―ガチャ 「遅くなってすみません!」 慌てた様子で入ってきたのは中年の男性だった。 乱れたスーツでゼィゼィと息を切らしながら、ドアの所で立つ様は異様なほど浮いていた。 全員からの視線を浴び、縮こまった様子で「大石です…」と小声で和也に伝えた。 「大石さん、新規の方ですね。お待ちしてました。初めまして、講師の佐々木です」 微笑むと、荷物棚と手洗い、エプロンの説明をし、大石が席についた所でようやく料理の説明が始まった。 「今日は、これからが旬の根菜を使ったメインを作っていきます。まず根菜ですが、皮付きのまま使用するので良く洗って下さい。次に…」 和也は手元のメモを見ながら、手順やポイントを説明していく。配布されたレシピには書かれていない事もあるため、生徒達は必要に応じてメモを取っていく。 和也は大石の方をチラリと見ると、彼も周りの様子を伺いながらメモを取っている様子で一安心した。とりあえずはついてこれているようだ。 昨今はレッスンに男性が参加する事もあるが、多くは自炊を始めたばかりであろう20代、しかも2人以上での参加が多かった為、恐らく母親と同じくらいの年代で独りで参加している大石はやはり稀有だった。 「それでは、調理に入ります」 調理は2人1組、4テーブルで同時に行う。 和也は各テーブルを回りながら作り方の細かいアドバイスやフォローをしていく形だ。 大石は美和とペアになり調理を始めた。 「大石さん、初めてですよね?何ならできそうですか?」 「えっ…えっと…味噌汁なら作れるかと思います」  「じゃぁ、味噌汁お願いしますね!」 「はい」 そう言って美和はテキパキとメインで使う根菜と鶏肉を切り始める。大石は美和の様子を伺いながら、自分も豆腐をまな板の上に置きぎこちない手付きで包丁で切り始めた。 それをチラリと見て美和が声をかける。 「あんまり料理しないですか?」 大石は話しかけられた事に驚き、「そうですね」と苦笑いしながら答えた。 「無理しないで、出来ない事は教えて下さいね?」 「江藤さんは頼もしいですね」 「先生!」 和也がテーブルの横で顔を覗き込むように見て微笑むと、美和は顔を赤くした。 「大石さん、ペアの江藤さんはよくレッスンに参加して下さっているので安心して頼って貰って大丈夫ですよ。僕も居ますから、困ったら声をかけて下さいね」 大石に向き合って声をかけると、他の生徒から呼ばれフォローに行ってしまった。美和はその姿をぼぉっとした顔で見詰めている。 「江藤さん、江藤さん?」 「あっ、ごめんなさい!何でした?」 「味噌汁に具材を入れる順番は…」 「豆腐が先ですよ!ワカメは火を止める直前に入れるんです」 「ありがとうございます」 美和に教えられた通り進め、大石は何とか味噌汁を作り上げる事が出来た。その間に、美和は実に手際良くメインの炒め煮を最終段階まで調理し、ほうれん草を茹で上げていた。 感心しながら見る大石に、美和は声をかけた。 「大石さん、ほうれん草の胡麻和え仕上げてもらってもいいですか?」 「えっ、は、はい!」 いきなり声をかけられ、戸惑いながら美和がザルに上げたほうれん草に対峙する。 (どうしよう…) 彼女は先程席を外してしまい、大石は一人その場に固まった。 「まず、ほうれん草を水にさらしましょうか」 「先生!」 何時の間にか和也が大石の横に立ち、声をかけていた。言われるままに蛇口をひねり、大石はほうれん草を流水にさらす。 「色止めといって、ほうれん草の緑色を鮮やかに保つ為の作業ですよ」 「成る程…!」 「さらしたらしっかり絞って、ボウルに入れて下さい。それから調味料を加えていきます」 「はい」 何とか仕上げられそうだと、大石がホッと胸をなでおろした所で美和が帰ってきた。 「困ったら、遠慮なく声をかけて下さいね」 そう言うと、和也は前に戻っていった。 美和が戻ってきたが、折角先生に教えてもらったのだ。何とか自力で仕上げようと大石は作業を続け、作り上げる事ができた。 「大石さん、ありがとうございます!」 「いえ、困っていたら先生が助けて下さって…」 「あっ、そうだったんですね!すみません席外しちゃってて」 「いやいや!」 申し訳無さそうにする美和に、大石は慌てて手を振った。彼女に否はない。「それにしても」と美和は口を開いた。 「先生、本当に生徒さん達の事よく見ててくれるんですよねぇ…」 「はぁ」 美和の口ぶりから、毎回あんな感じで生徒達をフォローをしているのだろうと想像できた。 「さ、メインももうできますよ!お待ちかねの試食タイムです。あ∼お腹空いた」 「私もです」 ニコリと笑う美和に大石も笑い返す。 各自作ったおかずをよそった器をお盆に乗せて、部屋の奥にある円形のテーブルに全員集まる。 和也は各テーブルで作られたおかずを少しずつ自分の皿によそい、席についた。 「いただきます」 全員で合掌し、賑やかな試食タイムが始まった。 大石以外は全員女性で、年齢は20代後半から40代前半くらいだろうか。 「煮物なのに、ご飯が進みますね!」 「切って炒めたら煮るだけ、簡単なのに美味しい!」 「仕事から帰ってきたらあれこれ難しい事やってられないですよね~簡単なの助かる!」 微笑みながら飛び交う会話に相槌を打ち、和也は黙々と食べていた。隣に座った大石をチラリと見ると、一つ一つの料理をじっくり観察し、味わいながらたべている。 「大石さん、お味はいかがですか?」 「えっ」 いきなり話しかけられて大石は驚きながら和也を見た。再び料理に視線を戻し口を開いた。 「皆さんおっしゃる通り、簡単なのにご飯が進む味で美味しいです」 「ありがとうございます、大石さんは普段料理はされるんですか?」 「お恥ずかしながら全く…たまにご飯を炊いて味噌汁を作るくらいです。心配した同期がレッスンを予約してくれて」 「ああ、それで…」 大石のような、中年男性が独りでレッスンに参加することになったのか。和也は合点がいった。 レッスンの申込みの際、必要なのは名前と連絡先、食べ物のアレルギーくらいで個々の詳しい情報は分からない。参加理由も人それぞれだ。 頷く和也に、大石は苦笑いした。 「私みたいな年齢の男がこんな若い女性に混じって料理をするなんて場違いですよね…」 「そんなこと無いですよ」 和也は微笑んだ。 「レッスンに参加される理由は人それぞれです。料理に年齢や性別は関係ありません。寧ろ男性の方が料理に興味を持って下さるのは、嬉しいです。良かったらまたレッスンにいらして下さいね」 大石は一瞬大きく目を見開いたが、「ありがとうございます」と微笑み返した。 「先生!胡麻和えなんですけど…」 「はい」 他の生徒に話しかけられ、和也がそちらに顔を向けたので、大石は再び食事を再開した。 「大石さん、味噌汁おいしいですよ!」 今度は隣の美和に話しかけられ、「ありがとうございます」と答える。美和に言われた通り、火を止める直前に入れたワカメは食感もしっかりしていて美味しい。普段家で適当に作る味噌汁の、とろとろになるまで煮込まれたワカメとは別物だった。 (こんなちょっとの事で味や食感が変わるんだな…) 料理って、面白いかも知れない。 同期が勝手に申し込み、半ば強制的に参加したレッスンだったが意外な発見があったし、割と楽しかった。女性の生徒達ばかりの中、中年男性の自分はやはり浮いているが、先生も男性なのが心強い。 (夕飯も済ませられるし、何回か通ってみてもいいかもな…) 味噌汁をすすりながら、大石はそんな事を考えていた。
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