予行演習

4/4

13人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
 政則はそう言って離婚届を食卓に下すと、「ちょっとお手洗いに」と言ってその場を後にした。荷物を持って、誰もいないトイレの個室に入ると鞄の中からクリアファイルを取り出す。  中にはが入っている。既に政則が記入した離婚届だ。先程の小道具とは違って、現実味がある。さらに冷たく、残酷な紙だ。ぺらっぺらの紙なのに、それほど夫婦にとって大きな影響を持つ。 「さっきやったみたいに……」  政則は目を瞑ってイメージトレーニングをする。今日の撮影のように、家に帰ったら清子に突き出し、離婚の話をするのだ。この撮影はその為のでもあった。今日は政則にとって自分の意思を清子に話すだから、その為に予行演習は必要だった。  まさかこんな機会で予行演習できるとは思っていなかった。こんな機会をくれたあの監督には本当に感謝しかない。  政則は鞄に離婚届を仕舞うと、冷や汗を拭ってからトイレから出た。丁度スタッフとばったり会い、会釈をしてから足早に戻る。  心臓がドクンドクンと鳴っているのが分かった。予行演習通りやるだけだ。何も緊張することは無い。それでも、5年ほど連れ添った妻に離婚届を渡すという初めてのことは恐怖心しかなかった。初めてのことをやるのは怖い。でもその怖さを乗り越えないと、自分の意思は清子には伝えられない。  政則は廊下で立ち止まって深呼吸をした。鞄を置いて、監督と清子がいるリビングに向かう。笑顔の仮面を被り、心臓の高鳴りを隠した。  特別な一日も、佳境を迎えようとしている。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加