赤い夢

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赤い夢

 通い慣れた高校までの通学路と、その周辺の街並みは、アスファルトの凹みや、民家の塀の汚れに至るまで、なぜか鮮明に覚えていた。  でも、今の僕にはそれらを懐かしむ余裕はなかった。  黒くてグルグルと渦を巻く得体の知れない物質が、僕の体に纏わりついて、口の中から体内に入ろうとしてくるからだ。それは光を反射するヌメヌメとした質感で、ウミヘビを連想させた。  僕はそいつを必死で払い除けながら、通学路を走っていた。  周辺視野がぼやけてよく見えない、苦しくてながら必死で走る。いつもパンとコーヒーを買っていたコンビニが見えてきた。電車の遅延証明を貰えた日には、立ち読みをして時間をつぶしていたことを思い出した。店の前を通り過ぎる時に、店内に怪物が立っているのが見えた。そいつは天井に頭がぶつかるほど身長が高くて、全身真っ赤で片腕と片足がなかった。頭も不自然な方向に傾いていたかもしれない。まるで人間が引き伸ばされたような姿だった。  油断した隙に、黒いグルグルが喉まで入り込んできた。僕は何とか吐き出す、涙がでてくる。それでも立ち止まることが出来ない、僕はきっと急いでいる。どこかへ向かって。  急激に日が落ちてきた。しかし完全には沈まずに巨大な夕陽になって、地平線に埋まった。新鮮な血液が赤のクレヨンだけで描かれた炎のように燃えた。とにかく赤だった、何もかもが赤に染まって、僕はそれを夕焼けだと認識していた。  走り続けて、河川敷へ出た。夕陽の真ん中に巨大な黒い影が現れた。それは鳥のシルエットだった、たぶんフラミンゴとか、ハシビロコウとか、そんな種類の鳥類の影だった。  その鳥のくちばしが開いて僕の耳元で「わたしだけの赤」と言った。僕は「それは違う」と答えた。  鳥の影はニヤニヤと笑って「いるよ、いまも水の中に」と鳴いた。  高校一年の頃、この河川敷に座って、できたばかりの友達と色々な話をしていたことを思い出した。今日はいつも笑いかけてくる新興宗教の勧誘のおばさん達がいなかった。いるはずがないのだけれど。  真っ赤な夕陽を反射して静かに揺れる水面は、まるで大きなプラスティックのようだった。落ち葉が一枚、沈むことができずに、ゆらゆらと漂っていた。確かに落ち葉のように見えた。  僕は何かに躓いて転んだ。その拍子に黒いグルグルの一部が千切れて、河まで転がっていった。足元を見ると、緑色のビニール手袋がひしゃげて落ちていた。  化学の授業で使っていたものだった。手袋はゆらゆらと動きだして、親指と薬指で”立ちあがった”。そのままズリズリと指を引き摺りながら、僕から逃げるように歩き出したが、間もなく発火し、真っ赤に燃えあがった。しばらくはドタバタと、のたうち回っていたが、鋭い匂いだけを残して、やがて動かなくなった。  千切れて動きが鈍くなっていた黒いグルグルがまたゆっくりせり上がってきたのを合図に、僕はまた走り出した。  夕陽がドロドロと溶けて世界を塗りつぶした。巨大な鳥の影がギャーギャーと鳴いて、全部赤だった。僕は耳を塞ごうと両手を上げた、その瞬間、黒いグルグルが日よけ傘のように開いて、頭から僕を包み込んだ。    静けさに目を開ける。春風がカーテンを巻き上げて、教室に朧雲が広がる。柔らかい光に包まれて窓際の席が浮かび上がる。その上に置かれた一輪挿し、花弁の一枚が音もなく散った。
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