忘れたい人とナポリタン4

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忘れたい人とナポリタン4

「いやー、良かったです。今部屋を掃除していたんですけど、一人じゃどうも片付かなくて」  朱梨たちは重田に連れられて彼女の部屋に入った。 ところが、そこは部屋と呼ぶにはモノが多過ぎた。部屋の隅には片付けかけの段ボール箱が二つ三つ重ねて置いてあって、床にもアルバムらしき冊子や可愛い雑貨が散らばっていた。一言で言うと、足の踏み場に困る。  朱梨たちはつま先でゆっくりと部屋を進んだ。土踏まずがつりそうになる。 「押し入れみたい」  朱梨の後ろで奈海が気持ちを代弁した。彼女もつま先で立っていて、その上片足は床に付いていなかった。 「片付けに夢中になってたらお昼ご飯摂るの忘れちゃって。そんなとき、偶然ツリーハウスさんのことを思い出したんです。あーお腹減った」  重田はそう言いながらモノを避けて台所に入った。家主の彼女はもうすでにコツを掴んでいるのか、器用に移動できている。 重田はフォークを出すと、ダイニングチェアに座った。前もって片付けていたのか、一応テーブルの上に皿を置くスペースぐらいは確保してあった。 「いただきます!」  重田はそう手を合わせると、元気よく食べ始めた。彼女はフォークに太くパスタを巻き、それを大きな口に入れた。口の端には盛大にケチャップが付く。 「最高! これはハマる」  重田は頬っぺたを抑えるモーションととともに嬉しいことを言ってくれた。彼女はリスのごとく頬っぺたいっぱいにナポリタンを詰めている。 朱梨はその様子を見て思わず顔が綻んだ。出前を含めてこれまで何度も客の許に料理を運んだが、直接こういうことを言ってくれる人はいなかったからだ。このあとの片付けが嫌になっていたが、朱梨は少しだけ忘れた。 「重田さん、うちらは何を片付けるの?」  奈海はしばらく重田がパスタを咀嚼するのを見てから尋ねた。忘れかけていた片付けという現実を朱梨は思い出した。 「ああ。えっと、それはですね」  奈海に言われた重田は口の中のナポリタンを飲み込んでから答える。 「ここにあるモノ、全部です」 「え、全部ですか?」  重田の返答に朱梨は思わず訊き返す。 「ミニマリストでも目指してるの?」  奈海も疑いの声を出した。 「そういうわけではないけれど、全部、要らないので」  重田は案外あっさりと言い放った。  これだけ要らないモノを溜め込んでいるなんて、どれだけ片付けが苦手なのか。朱梨の担当編集の凛も片付けが上手くない方で、いつも机の上は書類でいっぱいだが、それに劣らない。  朱梨は今度こそ、ため息をついた。もちろん、重田に気付かれないように気を付けた。流石に客の前でそのように明らかな態度は取れない。 「まあ、全部ゴミ袋に突っ込んじゃっていいですから」  重田は気付かず、そう言うと椅子に戻って食事を再開した。またフォークにいっぱいパスタを巻き付ける。  頼まれた朱梨たちは分かりました、と返事をして言われた通り、片付けに取り掛かった。 まず、朱梨たちは積まれた段ボール箱に埋もれていた大きな新品のゴミ袋を見つけ出した。大きく脚を上げてダイニングテーブルのところまで戻ってくると、それを両手で持ってバサバサと中に空気を含ませて口を広げた。人が一人入れるぐらい大きな袋だ。それをダイニングテーブルの端にテープで留めた。手でやるより口が大きく開く。  そして、朱梨たちは床に空きスペースを見つけてそこに並んで腰を下ろした。床に近くなると、さらにモノの多さを実感した。これが完全になくなるまでやるのかと思うと、気が遠くなる。 しかし、そんなことを思っていても始めないと終わらない。朱梨たちは目の前のモノたちをむんずと掴んでは、次々とゴミ袋に入れていった。  最初は足を組み替えたり立ってみたりコロコロ姿勢を変えたが、ゴミ袋の半分ぐらいが埋まったころにはただただ機械的に腕を動かすだけになった。まるで腕だけ別の生き物になったみたいだった。 「それにしても、よくもまあこんなに溜めたよ」  大きなゴミ袋の底が完全に見えなくなったころ、奈海が言った。 「本当ね。それにしても一体何かしら。誰かからのお土産?」  朱梨も手に取ったキーホルダーをひらひら裏表に返して観察する。プラスチックのキャラクターが付いたキーホルダーだ。茶色の饅頭らしき被り物をしている。温泉地のお土産だろうか。 「もしそうだとしたらアルバムなんて貰うか?」  そう反応する奈海は手に分厚いアルバムを持っていた。立派な赤い厚紙の表紙が付いている。タイトルは『二人の思い出』となっていた。  確かにそれを他人から貰ったとは考えにくい。 「待て。まさか」  奈海が呟いた。 「何よ」 「いや、言えない」 「どうして?」 「うちからはダメだ。野暮になっちゃう」 「ちょっと、そう言わずに」 「もう。あんたさ、小説家くせに想像力に欠けてる」 「今、それは関係ないでしょ」 「いいですよ、言ってもらって。こっちはお願いしている身ですから」  重田は突然話に入ってきた。朱梨たちはダイニングチェアに座る彼女を見上げた。 彼女はごちそうさまでした、と胸の前で手を合わせる。 皿に視線を落とすと、もうそれは綺麗に空だった。いつの間にか完食していたらしい。皿にはケチャップをまとったパスタがぐるぐると踊った跡が残されている。  重田は皿をシンクに持っていくと、蛇口を捻って水に漬けただけでそのまま朱梨たちの横に腰を下ろした。彼女は自分の家だからか最初から脚を開いて胡坐をかく。スカートだったら、流石に目のやり場に困るからズボンで助かった。  重田は座ると、目の前にあった金色のキーホルダーを手に取った。今度はどこかのお土産ではなく、「N」のイニシャルを型取ったものである。苗字には入っていないから、名前の頭文字かもしれない。キーホルダーは窓の外の日を受けて輝いている。  重田はすっと息を吸って言った。 「お察しの通り、これ全部前に付き合ってた人から貰ったものです」 「え?」  まさか!  朱梨は驚きの声を出した。全然、気付かなかった。 朱梨はいつもこういう色恋の話になると途端に疎くなってしまう。高校生のころ、奈海が恋バナをしているときも、全然話についていけなくて休み時間が終わるまでにオチまでたどり着かなかったこともある。 奈海はほらね、と得意気な顔をして耳許で囁いた。 「これ、全部ですか?」  朱梨は訊いた。 「そうです。結構長く付き合ったので」  重田はそう照れるように笑った。頬が微かに赤くなる。 「お付き合いを始めたのは高校一年生のときです。出会いは多分入学式か、初めてのホームルームだったと思いますが、実はあまり覚えていなくて、気が付いたら一緒にいて、夏休みの前には周りから付き合ってるんだね、と言われていました」 「へえ、何かいいな。付き合うべくして付き合ったって感じで」  奈海は羨ましげな声を出した。 「その人とはいろいろなことをしました。放課後に河原の道を歩いたり、メガホンを持って部活動の応援に行ったり、一回だけ授業中の教室でこっそり手紙を回したこともありました。でも、先生に気付かれてこっぴどく怒られたけど。そうそう。このナポリタンもその人が好きで、片付けてたら急に食べたくなったんです」 「それで今日ご注文をして下さったんですね」 「はい。あの人が好きなナポリタン」  話す重田は楽しそうだった。 「デートもたくさん行きました。定番の遊園地、映画館、美術館、水族館。夏には花火を見て、秋は紅葉狩り、冬はスキーに出かけて、春にはお花見をしました。長い休みに入ると、泊まり掛けの旅行も行きました。最初は電車一本で行けるところだったけど、だんだん距離も伸びて温泉や山にも行きました。あ、このキーホルダーも富士山の麓で買ったんですよ」  重田は手に持っていた金色の「N」のキーホルダーを顔の前に掲げた。揺れてキラキラしている。 「わたし、下の名前が那木(なぎ)っていうんですけど、付き合って三回目の旅行で、『名前がずっと綺麗だと思ってた』って言って買ってくれたんです。全然富士山と関係ないのに嬉しかった」  重田は目の前のキーホルダーを、目を細めて愛おしそうに眺めた。まるで、それがその人の代わりであったかのように。 「その人といるといつでも素の自分でいられたんです。張り切ったお洒落をしなくても高いコスメをつけなくても、その人はわたしのことを好きと言ってくれました。それまでもお付き合いした人はいたけれど、どこか格好つけちゃって普段着ないようなフリフリのワンピースを買ったり、有名ブランドのグロスを選んだりしていたから、自然体でいられるのが嬉しかったんです」 「……それじゃあ、どうしてお別れしたの?」  奈海が訊いた。  そんな素敵で合う人を手放すなんて勿体ない。朱梨も彼女の方を向いた。 「一言でいうと、自然消滅です」 「自然消滅?」  朱梨が首を傾げた。 「そうです。わたしたち、高校三年生になるとお互いに大学進学することにして、別々の学校を志望したんです。わたしは都会の法学部で、向こうは地方の生物系の学部でした。将来は獣医になりたいらしくて」 「頭が良かったんですね」 「それなりに。わたしもその人も勉強で苦労したことがないタイプだったから、『お互い頑張って志望校に受かろうね』なんて言って、三年生の夏以降はこれまで週に一回のデートもやめて猛勉強しました。おかげで二人とも無事志望校に合格しました」 「おー、おめでとうございます」  奈海は嬉しそうに手を叩いた。 「だから、高校を卒業すると遠距離恋愛になりました。入学して最初のうちはメールも毎日して、週に一回は絶対にテレビ電話をしました」 「お熱いね」 「今時ラブラブって言うでしょ。奈海はいつの時代の人?」 「いや、本当にお熱かった(、、、、、)と思います。思い出すだけでもう」  重田は手で自分の顔をぱたぱたと扇いだ。暑い暑いと呟く彼女の顔の赤さは首許まで広がっていた。 「でも、そのうち二人とも生活にズレが出てきて、連絡の頻度も二日に一回、週に一回、月に一回って減っていきました。最後にやり取りをしたのは去年の春です。ちょうど二年生に上がるころだったので、お互いに進学おめでとうって送り合いました。それ以降は音沙汰なしです」 「それで自然消滅?」 「はい、残念ながら」  窓の外の光を受けてできた朱梨たち三人の影が部屋の奥に長くなっていた。台所のシンクで水に漬けてあるナポリタンの皿に蛇口から出た水滴がぽたんと落ちる音がする。 「でもさ、どうして今さら整理しようと思ったの? 年末でもないしさ」  奈海が尋ねる。 「実は、今、あのあとに付き合い始めた人がいて……」 「え!」 「朱梨、驚きすぎだろ」 「だって、お熱いその人とは……」 「もう一年以上も連絡取ってないんだぞ。お別れ認定するだろ」 「そういうもの?」 「朱梨ちゃんはまだまだ少女だなー。ねえ、重田ちゃん」 「まあ、店員さんは純粋といいますか」 「重田さんまで……」  朱梨はむくれた。客も仲間にして馬鹿にするなんて、店長が先陣切ってやることじゃない! 「それで、今日はその人との一周年記念日で初めて家に来るんです」  重田は話を戻した。 「それが決まったあとにまだあの人に関するモノが家にあることに気付いて。こういうのって見られちゃまずいじゃないですか。だから、どうしても来るまでに片付けたかったんですけど」  重田は部屋の奥に積まれた段ボール箱を遠い目で見つめた。段ボール箱に日が差し、何年も閉じ込められていたであろう埃がゆっくり落ちながら、ダイヤの欠片みたいに煌めく。まるで彼女とその人との思い出の一つ一つが忘れられていくのを拒んでいるみたいに、時間をかけてふわふわと宙に浮かんでいる。  重田は舞った埃を吸い込んでむせた。 「窓、開けますね」  重田が床に手をついて立ち上がると、部屋の大きな窓をガラガラと開けた。夕方の涼しい風が緩やかに部屋に流れ込む。煌めく埃も宙で回るように舞って誘われるように外に出ていく。  重田は窓の外に向けて大きく息を吸ってゆっくりと吐いた。彼女の横顔が薄くオレンジ色に照らされ、アイメイクのラメにも反射する。  長く付き合った思い出の人ともこの夕日を眺めたのかもしれない、と色恋の話に疎い朱梨ですら思えた。 「実は、今日の記念日、今朝まで忘れていたんです。カレンダーの日付のハートマークを見て思い出しました。情けないですよね。富士山で買ったキーホルダーは昨日のことみたいに覚えてるのに」  夕日を受ける重田の目はきらきらと潤む。目許のラメと眩しさだけかと思ったけれど、それだけではないみたいだ。 「店員さん。人間ってどうして大事なことはぽんって忘れちゃうのに、忘れたいことに限ってずっと頭に残ってるんですかね」  彼女の心の隅には埃の被った煌めきが大事にしまってある。それはあの金色のキーホルダーみたいに美しい。涙が溢れるのをこらえるような彼女の瞬きはそんなことを語っているような気がした。  何も言えない朱梨と奈海はじっと彼女を見つめる。夕日の光に包まれて影になった彼女の髪の毛先は緩やかに風に揺れている。夕日の光に包まれて影になった彼女の髪の毛先は緩やかに風になびいた。  そのときだった。 「そんなこと考えてたの?」  不意に声がした。聞き覚えのない声だった。玄関からだ。  朱梨たち三人は一斉に玄関の方に振り向く。  そこには一人の男の子が立っていた。黒い短髪で青のセーターを着ていて、年は重田と同じぐらいである。 「(けん)くん?」  背後で重田の消え入るような声が聞こえた。  朱梨たちは彼女の方を見た。 「あ、もしかして」  状況が飲み込めない朱梨を横目に奈海が言う。何かに気付いたみたいだった。 「この人がさっき言ってた……」 「はい、今付き合ってる押川健心(おしかわけんしん)くんです。今日で一周年の」  重田は戸惑いつつも紹介した。  これは修羅場だ。ようやく理解できた朱梨はワンテンポ遅れて目を丸くする。  こんな典型的な場面、小説でも描いたことがない。ネタには持って来いだけど、あまりにもスリリングな状況に今の彼女はそんなことを考える余裕はもちろんなかった。  どうやって言い訳をするか朱梨は必死に考える。張本人ではないはずなのに緊張する。ふと横を見ると、奈海も硬い表情をしていた。多分、彼女も同じことを考えている。  どんと重い空気の中、当の重田は口を開いた。 「いつからいたの?」 「今さっきだよ。ノックしたつもりだったんだけど」 「ごめん、聞こえなかった」 「そっか。こっちこそ悪かったよ。急に来て」 「やめて、謝らないで。今日はもともとそういう約束でしょ」 「そうだけど」  重田と健心の間に沈黙が訪れた。  朱梨と奈海は息を殺し、できるだけ気配を消した。 「健くん、どこから聞いてた?」  重田が緊張した面持ちで訊く。 「『結構長く付き合ってた』とか言ってたところから」  長いこと盗み聞きをしていたらしい。重田がそんなところから、と呟いたのが聞こえた。 「ごめんなさい。別に別れたいとかそういうわけじゃなくて。ただ健くんが来る前に片付けようと思って引っ張り出してきたら、思った以上に手が止まっちゃって。本当にごめん」  重田の言葉にだんだん勢いがなくなっていった。  一方の健心はじりじりと彼女に歩み寄る。  どうするつもり? 掴みかかるの? 殴るなんてやめてよね。わたしたちじゃ止められない!  朱梨たち二人は心臓をバクバクさせながら彼の動きを注視した。流石に二人がかりだったらいざという時でも止められる。このときの二人には確かな結束があった。  健心はぐんと右手を頭の上に真っ直ぐ挙げた。  やめて、本当に殴るつもり? 目の前で暴行なんて洒落にならないわ!  朱梨たちも手を伸ばし、いつでも制止できる体勢になる。  健心は重田に向けて右手を下ろしていく。朱梨たちのドキドキも増す。 ダメダメダメ。いくら嫉妬でも殴っちゃダメ! 朱梨たちは思わず声が出そうになる。 「……え?」  重田の震えた声が重い空気を切り裂く。彼女はゆっくりと自分の左肩に首を振った。  そこには健心さんの右手が優しく乗っかっていた。きつく握るのではなく、ふんわりと彼女の肩を包み込むように置かれている。 「那木ちゃん。僕、話を聞いてたって言ったよね」 「うん。怒ったでしょ。前の人のことまだ覚えてるって」 「それは少しね。僕も人間だから」 「そうだよね。ごめん。すぐ忘れるから。とりあえずここ……」  重田がそう片付けに戻ろうとする。しかし、健心は手をどかさず、首を横に振った。 「無理しなくていいよ」  健心は優しく囁いた。彼女は目を丸くして上目遣いになる。 「君にとって楽しかった思い出でしょ。無理に忘れることはない」 「でも」 「忘れたいって思えば思うほど、色濃く思い出してしまうものさ。君が似たようなこと言ったんだよ。ゆったり何も考えず過ごせば、いつか気付いたときに頭からすぽんって抜けると思う。だから、大丈夫。僕はそんな君が好きだから」  健心は重田を温かく微笑みながら見つめた。 「健くん!」  重田は甘い声を出して彼に抱きついた。  途中から完全に恋人二人の世界になっていて朱梨たちはお邪魔になっていたが、何とか解決したみたいだ。  朱梨たちたちは空気と化したまま、重田と健心の二人を見守った。
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