忘れたい人とナポリタン5

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忘れたい人とナポリタン5

 朱梨と奈海はあのあと、すぐに重田宅からお暇した。恋人たち二人の空間に出前の人間がいるのは流石に居心地が悪かったから、さっさと出てきてしまったのだ。  日は傾き、オレンジ色も濃くなっている。東側はほとんど真っ暗な夜の空になっている。朱梨たちは街灯が点き始めた住宅街を店に向かって戻っていった。 「今回もただ出前に行っただけになっちゃったわね」  帰りもおかもちを持つ朱梨は言う。しかし、行きとは違って料理がなくなった分、少し軽い。 「まあ、いいだろ。何とか解決したみたいだし」 「それはそうね。今カレさん、優しい人で良かったわ」 「優し過ぎる気がして若干怖かったけど」 「そうかしら。優しいに越したことないわよ」 「そうなんだけどな。まあ、まだ少女のお嬢さんには分からないか」 「さっきから言いたかったけど、昔からそういう話に疎いの知ってて言わないでよ」 「悪い、悪い。ははははは」 「笑わない!」  朱梨はおかもちとは反対の手で奈海の肩を叩こうとしたが、身の軽い彼女はひらりとかわした。もう、こんなこと言うならおかもち無理矢理にでも持たせれば良かった。  前にぴょんぴょん跳ねていった奈海はけらけらと笑っている。 「わたしさ、重田さんの言うこと、納得しちゃった。大事なことは忘れるのに忘れたいことは頭に残っちゃうっていう」  朱梨は少し駆け足で先を行く奈海に追いつく。 「確かにな。大事なことほどぽろっと」  奈海はまた笑った。彼女はいつも以上にご機嫌だ。違和感を覚えるほど。  うん? 違和感?  朱梨は自分の感覚に引っ掛かりを覚えた。何かが変だ。首を傾げて考えてみる。 「どうした?」  気付いた奈海も足を止める。 「いや、何か変だなと思って」 「変? 何もないけど」  そう言って奈海はズボンのポケットに手を突っ込んだ。まともにおかもちも持ってくれないのに偉そうだ。店長という立場のせいかしら?  そんなことを思ったとき、今度は奈海の動きが止まった。目をぱっちりと開いて、口をあんぐりと開けた。うっかりが多い彼女はときどきこの顔をする。 「どうしたの?」  朱梨は奈海の顔を覗き込む。 「いけねえ」 「え?」  朱梨がそう顔をしかめたとき、ポケットに突っ込んだ奈海の腕がゆっくりと動いた。朱梨もそちらに視線を移す。奈海の腕が上に引き上げられ、手がポケットから出てくる。 「あ!」  思わず声が出てしまった。  ポケットから出された奈海の手には一枚の紙が握られていた。さっき、重田宅に伺うときに見たものだ。用紙の上部に『ご予約』と書かれた、葉月のケーキの予約票である。 「大事なことに限って忘れるって本当ね」 「ちょっと、そんなこと言ってる場合か? ケーキ忘れたなんて言ったら葉月のやつ、怒り狂うぞ。うち、取ってくる!」 「今から?」 「行かないと店が閉まるだろ! 先帰ってて!」 「本当に行くの? ねえ、奈海! お店の片付けは?」 「二人でやっておいて! 頼んだぞ!」  奈海は予約票を握ったまま、来た道を走って戻っていく。運動神経抜群の彼女の足は速く、あっという間に豆粒ぐらい見えるほど遠くに行ってしまった。  朱梨はため息をつく。もう勝手に行っちゃって。  まあ、仕方がない。人間は大切なことほどすぽんと忘れてしまうのだから。  朱梨はおかもちを持ち直し、お店への帰り道を急ぐ。西に向かっているから夕日が眩しい。おかもちにも反射するからできるだけ手許は見ないで、彼女は楽しみに少し足を浮かせる気分で住宅街を歩いて行った。
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