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忘れたい人とナポリタン1
小説家の古藤朱梨がカフェ・ツリーハウスという店で働き始めて一週間が経った。カフェの店員としては慣れてきてある程度一人で仕事ができるようになった。こんなところで成長しても仕方ないけどなあ、なんて思いながら、客が帰ったカウンター席のテーブルを布巾で拭いて彼女はため息をついた。
「先生、馴染んできたじゃないですか」
テーブル席から声が掛かった。
店は一番忙しいお昼時を過ぎて、今はおやつの時間。店はがらんと空いていて、今いるのは朱梨を意地悪な台詞で呼ぶその客だけだった。
「もう、凛さん。ここで先生って呼ぶのはやめてください」
朱梨はカップにコーヒーを注ぎながら三上凛に言った。彼女は綺麗な黒髪で、ジャケットにパンツというキャリアウーマンらしい恰好をしている。
彼女は朱梨に付く担当編集で、カフェ・ツリーハウスの常連客だ。朱梨がまだ客として通っていたころからよく一緒に訪れていて、働き出してからはほぼ毎日のように顔を出している。
「いいじゃないですか。他にお客さんいないんだし。それに、ここで働いているのだってネタ探しのためで、作家業の一環です」
「そりゃあそうですけど」
納得できそうな理論を立てられてしまった。朱梨は何も言い返せなかった。
朱梨は小説家だが、現在はスランプの真っ只中である。ネタが一切見つからなくなってドツボに嵌ってしまった担当作家をどうにか再起させようと、凛はここの店長で朱梨の親友である木内奈海と一緒に、朱梨をここで働かせることを決めてしまったのだ。全く、どうして相談もなく決めちゃうのかしら。時間が経った今でも朱梨はたまにイライラを思い出す。
ところが、それでも朱梨が大人しく働いているのには理由があった。
「先生、本業の方はいかがですか? 副業の効果は?」
凛は本題に入った。しかし、朱梨は首を横に振ってしまう。
これこそ、朱梨が彼女に逆らえない理由である。筆が進まず、原稿を上げられていないのだ。原稿を止めてしまう作家は担当編集に逆らえない。
「そうだと思いました。ここに入ってから週七で働いているんだから。就職活動が終わった大学生じゃないんですよ」
「店の利益には確実に貢献しています」
「先生は文章を書いて稼いでください」
凛は不満そうにカップを傾けた。
一方の朱梨は小さくため息をつく。もう、言われなくても分かってるわよ。朱梨は少しいじけて厨房に声を掛けた。
「葉月くん、コーヒーのおかわりを」
「はい! ただいま」
キッチンからは店員の奥野葉月くんのいつもよりワントーン高い元気な声が返ってきた。
彼は朱梨が来るより以前からこの店で働いている子で、普段は厨房にいてフードとドリンクを作っている。朱梨も何度か客や店員として彼の料理を食べたりしたけれど、どれも絶品だった。
「あれ、葉月くん、今日はご機嫌ですね」
彼のテンションの違いに凛も気が付いたようだった。
「そうなんです。実は今日、実は葉月くんの誕生日でケーキを買ってパーティーをやる予定です」
「へえ、楽しそう」
「あの子、甘いものが好きだからケーキを楽しみにしてるんだと思います」
「可愛らしい」
凛はそう笑いながらテーブルの上で手を組んだ。
「子ども扱いしないで下さい」
ぷんすかしながら本日の主役の葉月が登場した。手には銀色のコーヒーポットを持っている。
葉月はおかわりをお持ちしました、と言うと、凛のカップにコーヒーを注いだ。並々と入れられた熱々のコーヒーからはふわっと湯気が立った。
「じゃあ、ケーキはわたしと奈海で食べちゃうけどいいのね?」
「それは違う話じゃないですか、朱梨さん」
「子どもみたいに怒らないの」
朱梨は葉月の肩に手をぽんと置いた。
「そうだ、朱梨さん。出前のご注文がありました。詳しいことは厨房で」
葉月くんは言ってきた。
「分かった。ありがとう」
朱梨は凛さんにごゆっくり、と声を掛けると葉月と厨房に戻った。
「二丁目の重田(しげた)さんのお宅にナポリタン一皿です。初めてのお客さまでしたが、場所は奈海さんに伝えているのでついていってもらえれば大丈夫です」
厨房に入ると、朱梨は葉月から注文内容を教えてもらった。彼は丁寧かつ確実に情報を伝達してくれる。仕事のできる良き先輩だ。
それに比べて店長は。朱梨はレジに居座る奈海を見た。彼女は客前だというのに、やる気なさそうに堂々とスマートフォンをいじっている。全く、これじゃあどちらが店長か分からない。
「奈海、出前行くわよ」
朱梨はおかもちを葉月から預かると、奈海に声を掛けた。
「はいはい」
相変わらず奈海はスマートフォンから目を離さない。
「はい、は一回」
そう声を掛けたところで彼女はようやく立ち上がり、スマートフォンをポケットにしまった。改めて見ると、エプロンすらしていない。どこまでやる気がないのかしら、と朱梨は呆れた。
「もう、葉月くんを店長にした方が店の売上向上につながるんじゃない?」
「うん、何か言った?」
今度はしっかり反応して、奈海は鋭い眼光を朱梨に向けた。どうでもいいことだけは聞こえるみたいだ。
朱梨は何でもない、と返すと、奈海の腕を引っ張って店の出口に向かった。そして、そのままいってらっしゃい、という葉月の声を背中に聞きながらドアをくぐった。
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