兄妹とチャーハン1

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兄妹とチャーハン1

 この街の端っこに小さな喫茶店がある。名前は『カフェ・ツリーハウス』。外壁の古いレンガが特徴的な昔懐かしい感じの店だ。  その店に小説家古藤朱梨(ことうあかり)とその担当編集の三上凛(みかみりん)が訪れていた。 「先生。無理にとは言いません。少しだけも原稿進められませんか?」  凛は手帳を開きながら腰を低く言った。作家の尻を必死に叩くのが担当編集というイメージがあるが、彼女はそういうタイプではない。 「そうですね……」  朱梨はテーブルに肘をつき、悩ましい声を出す。  朱梨は現在、スランプ中だった。とは言っても、全く筆が進まないというわけではない。文章を書くことはできる。もともとそれが得意で作家になったのだ。今だって言葉を紡ぐことは楽しい。凛には詳しく話していないが、他社でエッセイも執筆していて、それは予定通り原稿を渡すことができた。  ところが、それが小説となると話が全く変わってくる。自分の経験をそのまま文章に起こすのとは違う要素が必要になるからだ。 「まだネタがありませんか?」  凛が正面から朱梨の顔を覗き込んで訊いた。 図星だった。流石だ、と朱梨は思った。凛は作家デビューしたときから一緒の一番付き合いの長い編集者なのだ。 朱梨は肩をすとんと落としてはい、と返事をした。 「なかなかピンとくるものがなくて。ごめんなさい、凛さん」  朱梨は座ったまま、頭を下げた。重々しい空気だ。できれば凛さんとの間にこういう雰囲気は出したくないと思っていたが、筆の進みが悪いときは百パーセント作家の方が悪くて、仕方がない。 「そうですか。分かりました」  そう言うと、凛は手許の手帳をパタンと閉じた。もう今日はこれで諦めるらしい。  朱梨はもう一度、ごめんなさい、と謝った。 「話は終わった?」  そこへちょうど店長の木内奈海(きのうちなみ)がコーヒーポットを持ってやってきた。彼女はここの店長で朱梨の学生時代からの親友でもある。朱梨と凛はこの店の常連だった。 「はい、終わりました。すみません、先生のご友人のお店で仕事の話なんて」 「いえいえ。うちを使ってもらえるだけで嬉しいから。それに絶賛スランプ中の親友の顔も見られるし」 「何よ、奈海! 茶化さないで」  声を上げる朱梨を横目に奈海は二人のカップにおかわりを注いだ。  ホットコーヒーの入ったカップからはゆらゆらと湯気が立つ。ツリーハウスのコーヒーは苦みが少ないのが特徴で、大人だけではなく、若い学生からも人気があった。もちろん、朱梨や凛もここのコーヒーのファンである。  朱梨は熱々のカップをゆっくり傾けて気持ちを落ち着かせた。ほんのりとした苦みと程よい甘みが口の中に広がる。 「そうだ、奈海さん」  凛はカップを両手で持ちながら話を変えた。 「この間、うちの部署に出前届けてくださったとき、一緒に資料の整理をしてくださいましたよね。とても助かりました。ありがとうございました」  凛は座ったまま、奈海に頭を下げた。 「そう言ってもらえて良かったです。また手伝いますから出前頼んでください」 「分かりました。その際はよろしくお願いします」  凛が朱梨のいないときもツリーハウスを利用しているというのは初耳だった。初めてこの店に来たときは朱梨の紹介だったが、気に入ってもらえたみたいで店長の親友としては嬉しかった。  しかし、朱梨には一つ気になることがあった。 「出前に行って資料の整理なんて、結構きめ細かいサービスをやってるのね」  朱梨は口を挟んだ。 「行ったら困ってるみたいだったから」 「いつもやってるの?」 「あのときはたまたま。時間があったんだ」 「そうだったんですか。すみません」  話を聞いていた凛さんが慌てて謝った。 「謝ることないですって。お客さん一人一人に喜んでもらいたいだけだから。これからもどうぞご贔屓に」  奈海は営業スマイルになってそう言った。 言い換えればお客さんが少なくて時間が有り余っているということでしょ、と朱梨は意地悪なことを思ったが、突っ込まないでおいた。平日の昼下がりの店内は朱梨たちを含めて二、三席しか埋まっておらず、がら空きである。 「奈海さん」  そのとき、店のキッチンから声が飛んできた。  そこには奈海と同じエプロンを着けた青年が立っていた。胸許には『奥野(おくの)』という名札が掛かっている。ここの店員だ。 彼は固定電話の子機を片手に持っている。客からの問い合わせが来たらしい。 「出前のお電話です。三丁目の門口(かどぐち)さんのお宅にチャーハンを一人前」 「はいよ、葉月(はづき)」  奈海はキッチンに向けて威勢の良い返事をした。こんな静かなカフェより騒がしい居酒屋の方が似合いそうな声だった。朱梨は店内で彼女の声を聞くたびにいつもそう思っている。  それにしても、カフェでチャーハンを出しているなんて珍しい。メニューに載っていたかな、と朱梨は確認しようとするが、座っている場所からは見えなかった。  葉月と呼ばれたその青年は奈海の返事を聞くと、電話の子機をもとの場所に置いて仕事に戻った。 「またコンロの掃除だな」  一方、奈海はエプロンを外しながらポツリと言った。 「また?」  朱梨が訊く。 「常連さんなんだよ。いつもチャーハン注文してくれて、その度にコンロの掃除やってる」 「へえ、そういうお手伝いって編集部だけじゃないのね」 「あ、そうだ」  奈海は朱梨の言葉を無視して顔を近づけた。朱梨は目を丸くして顎を引く。 「出前、手伝ってくれない?」 「え!」  思ってもみなかった提案に思わず大声を出してしまった。店内にいた客の視線が一瞬集まって、すみません、と身を縮めた。 「いつも一人じゃ大変だから人手がほしくてさ。どうせ原稿も進まないんだし、ちょうどいいだろ」 「そんな急過ぎるわよ。ダメですよね、凛さん」  朱梨は目の前の凛さんに助けを求めた。ところが、彼女は嫌な顔一つしていなかった。 「いいじゃないですか。ネタが見つかるかもしれませんよ」  凛さんは笑って答えた。 「じゃあ、決定! うちはチャーハン作るから、朱梨は掃除用具の準備頼む」  そう言うと、奈海はキッチンに戻ってしまった。 「ちょっと!」  引き留めようとしたが、奈海は勢いよくキッチンに続く暖簾を揺らし、朱梨はテーブルに残されてしまった。 「凛さん」  お願いだから止めて、という気持ちを込めて朱梨の名前を呼んだ。しかし、彼女はもう身の回りの片づけを済ませていて、手にはすでに財布を握っていた。 「コーヒー代、わたしの奢りです。頑張ってください」  凛はそう言うと、席を立って素早くレジで会計を済ませ、ごちそうさまでしたと店を出て行ってしまった。  どうしてみんなこうやってわたしの意見は無視なのよ。朱梨は頬を膨らませた。
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