1/1
前へ
/8ページ
次へ

 慌てていたわけじゃなかったはずだ。朝は時間通り起きて、顔を洗い、朝食を食べて歯を磨いた。たしか七時三十分になったら家を出て、登校班と合流する。それがルーティンだった。  当時の俺は小学校四年生で、その登校班のなかでは二番目に年上だった。だから登校するときは一番後ろを歩き、前を歩く低学年たちを見守る役割をした。  学校に到着したときも、リコーダーを忘れたことには気がつかなかった。ランドセルから教科書を取り出し、体育着に着替えて校庭へ出た。薄ら寒い中を半袖短パンで走るためだ。大体三周。距離としては二キロくらいだったと思うが、それを毎朝全校生徒が音楽に合わせて走る。全く、今から考えると酷い習慣であるが、餓鬼という生き物はそれくらいへっちゃらなのだ。  走り終えると教室に戻り、朝の会が始まる。担任の先生が出席簿をつける。担任は二十代の美人先生で、当時の俺にとっては唯一の救いでもあった。 「はい、元気です」  みんながそんな決まり文句を言って出席確認が終わると、美人先生が色々と連絡事項を話した。大体五分ほど話してチャイムが鳴り、ほどなくして一時間目の授業が始まる。たしかこの日は算数だった。  当時、俺は母の勧めで塾に通っていた。どこにでもある地元の塾だが、そこで俺は優秀な成績を残していた。だから小学校の授業は余裕でしかなく、ささっと問題を解いて他の生徒に教えることも多かった。  二時間目の理科では、たしか生物(めだかだったはず)を観察した。今から思えば非常につまらない授業だが、当時の俺は真面目だったから、先生の話を熱心に聞いていた。そして自分なりにノートにまとめていた。  二時間目と三時間目の間には二十分ほどの休み時間があり、我が校では業間休みと呼ばれていた。この時間を使って校庭へ遊びに行く旺盛な生徒もいたが、俺たちのクラスは次の時間に音楽が控えていた。だからほとんどすべての生徒は音楽の授業で使う教科書やリコーダーを準備し、音楽室へと向かった。もちろん、俺も彼らと同じように準備しようとした。  あれ、ない。おかしいぞ。ランドセルの中にも、手提げバッグの中にも、ロッカーの中にも、リコーダーがない。 「あれ、ない」  もしかすると、そんな独り言が漏れていたかもしれない。 「おい、翔也。どうした?」  友達の遠藤くんが声をかけてきた。 「いや、なんでもない。ちょっと先行ってて」  俺は嘘をつき、遠藤くんを先に行かせた。彼はおそらく怪訝な顔をしたはずだが、遅れることは避けたかったのか足早に廊下を歩いて行った。  気がつくと、教室には俺一人だった。三時間目が始まるまで、あと五分もない。 「どこだろう、リコーダー」  そこで、俺は思い出した。そういえばこの間、掃除をするために家へ持って帰ったのだと。そしてそのまま、持ってくるのを忘れてしまったのだ。  つまり俺は、家にリコーダーを忘れてしまったのだ!  その事実を理解した途端、足元がガクガクと震えてしまった。そして目元には涙が浮かんできた。まずい。これで音楽の授業に参加したら、俺は先生に殺されてしまう!  ギュウッと胃がしめられ、吐きそうになった。変な汗が脇から出てくる。めまいもする。まずい。まずい。俺は相当焦った。おそらく、人生でもっとも焦った瞬間だった。それくらい俺にとって近藤先生は恐ろしい存在だったのだ。  どうしようか。俺は急いで考えた。選択肢は二つ。一つは怒られることを覚悟して音楽室へ行く。そしてもう一つは、逃げる。  しかし俺は真面目な生徒だった。優秀だねと美人先生から褒められ、いつも頑張っているねと母から頭を撫でられていた。そんな生徒が学校を飛び出して逃げるなんて許されるだろうか。  でも、怒られちゃう。怒られて、叩かれて、殺されちゃうかもしれない! 当時の俺は相当誇大妄想をする少年だったのかもしれない。だから勇気を出して学校を飛び出すことにしたのだ。  褒められるよりも、怒られたくない気持ちが勝ったのだった。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加