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§1.気になる人
九月半ばのこの季節はまだ残暑が厳しいけれど、オフィスの中は建物全体にほどよく冷房がきいていて、暑さを忘れてしまいそうだ。
私が勤務している会社はデスクや椅子がスタイリッシュで、快適に仕事が出来る環境が整っているからありがたい。
「会議資料、よくまとまってた。ありがとな」
ミーティング室にひとりで閉じこもって仕事をしていた先輩社員の矢沢さんが、エレベーターホールで私を見つけて声をかけてきた。大阪支社とのウェブ会議がスムーズに終わったようだ。
「お役に立ててうれしいです」
「えらく謙虚だな」
明るい口調の矢沢さんに対し、私はいつだってつつましやかな気持ちでいるのにと思いながら笑みを浮かべる。
私、篠宮 海咲は洋菓子メーカーである㈱グレンツェントの広報部に勤務している。
二十六歳になった今年は入社四年目で、ようやく一人前になれたと自信が持ててきたところだ。
矢沢さんはメタルフレームの眼鏡をかけていて、見た目は取っつきにくそうな感じがするものの、明るい性格で後輩の面倒見もいいので誰からも好かれている。
今日はグレーのアーガイルチェックのネクタイをしていて、何気にオシャレな人だと思う。
「俺の後任がやっと決まったそうだ。来週から引き継ぎを始めるよ」
実は矢沢さんは十月から営業部に異動が決まっている。
尊敬する先輩のひとりであり、右も左もわからない大学を出たばかりの私に仕事を教えてくれたのは矢沢さんなので、寂しい気持ちが湧いてきてしまう。
「篠宮は俺がいなくても大丈夫だろ?」
私の胸の内を見透かすように、矢沢さんが私の頭を荒っぽく撫でる。
その手から逃れるように、私は「やめてください」と言いながら矢沢さんと距離を取った。せっかくハーフアップに髪をまとめていたのに台無しだ。
「こういうの、今のご時世はダメだよな。セクハラ?」
「そうですよ。気をつけてください」
今みたいな接触を嫌がる女子社員もいるだろう。
私は矢沢さんの性格を知っているし、今のは子犬を撫でるような感覚だったと理解しているからいいのだけれど。
「えー、見ちゃったんですけど!」
突然後ろから声がかかって振り向くと、後輩の佐野 麻巳子がニヤニヤとした笑みをたたえて近づいてきた。
彼女は絵に描いたような噂好き女子で、どこからともなく情報を得ていて、あれやこれやとよく知っている。
そんな彼女が言いだしそうなことには予想がついてしまい、私は軽く眉根を寄せた。
「勘違いだから」
「矢沢さんは既婚者だし、まずくないですか?」
「だから違うって」
先ほどの矢沢さんの行動をたまたま目にした佐野さんは、要らぬ邪推をしたとしか思えない。
だけど彼女の言うとおり矢沢さんは結婚しているので、冗談でもおかしな噂を立てられたら困る。
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