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ちなみに、海棠がほんの少しでいいから可愛げを求めたい相手は迷惑そうに眉間に皺を寄せたままだ。ジャケットを羽織りながら「僕はべつにお疲れじゃないし、読み終わってない本があるし、珍しい標本だって届いたところなのに」と文句を言っている。不満そうに見上げてくる顔には、「まだ帰りたくない」と書いてあった。それはもう、窓に太マジックで書き殴ったみたいに、くっきりはっきりと。
相変わらずの本好き、研究好きだ。そしてなかなかの人見知りである。これでよく学生相手の大学の講師なんか続いているものだと思う。海棠は苦笑して、軽く肩をすくめた。
「そんな顔してもだめだ。この2ヶ月間で何回家に帰った? どうせここ数日も研究室に引きこもって巣作りに励んでたんだろう。迷惑だから一度帰るぞ」
比嘉は押し黙って返事をしなかったが、研究室の中を思わずのように振り返った絵馬が、比嘉のデスクを見て吹き出した。
「あれって巣作りだったんだ」
絵馬の視線は、数種類の顕微鏡やプレパラート標本の保管棚が機能的に並んだ部屋の一角に向けられている。そこだけ異空間となり果てつつある、本と標本とコピー用紙の束に埋もれた比嘉のデスクだ。いつ雪崩が起きてもおかしくない。
比嘉がそわっと狼狽えたように肩を揺らした。
「え、絵馬くん、いつも言うけど僕のものに触らないでね。ちょっとでも触ったり動かしたら分かるんだから…」
「あーはいはい、分かってますって。涙目で棒立ちになった先生を宥めるの大変なんで、だれも触りませんよ」
「…べつに、泣いたりはしないけど」
でも困るから、と小声になってボソボソ言い募っている。長年付き合いのある海棠にはしかめっ面で文句を言えても、まだ馴染みの薄い学生に強くものを言うことはできないのだろう。勝手に片付けられたデスクの前で呆然と立ち尽くす比嘉の後ろ姿を想像して、海棠はちょっと笑った。
比嘉が未練がましく研究室の中を見やってから、海棠を見た。そして絵馬を見る。
「…絵馬くん、僕のかわりに僕の家に帰らない?」
「はい?」
きょとんとした絵馬に、中へ戻るようにと手を振った海棠は、がっちりと比嘉の腕をつかんだ。
「馬鹿言ってないで行くぞ」
「あ、痛い、…もう。引っ張らないでよ」
これでは恋人を迎えに来たというより、指名手配犯の逮捕連行だ。はあ、と溜め息がもれた。
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