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「比嘉」
「…なに」
「今夜は俺と一緒に食事をしてくれないか」
ややあって億劫そうにこちらを向いた比嘉が溜め息をついた。
「いやだって言ったって、どうせ連れて行くんでしょ。もう車に乗せられちゃったし」
その通りだ。読書と研究をこよなく愛している比嘉は放っておくと何日も家に帰らない。講義の時間以外は日がな一日、研究室か図書館に籠っている。だから海棠が暇を見つけては連れ出しに来ているのだった。誘いたいときはなおさらだ。待ち合わせなんて、してもすっぽかされるだけである。
「心配するな。おまえが緊張しない店を選んである」
「…別にどこでもいいよ」
「そうか?」
「もう慣れた」
「…そうか」
言われてみれば、外食先で比嘉が落ち着きなく視線をさまよわせたり何度も座りなおす姿を最近は見なくなった。老舗の料亭もドレスコードのあるレストランも、何年か前までは尻込みして「やっぱり帰る」とごねていたのに。いつの間に、どんな店でも落ち着いて食事が出来るようになっていたのだろう。
少々寂しい心地になって、比嘉の頬を手の甲でそっと撫でたら、比嘉が戸惑ったようにこちらを見たあと、口ごもりながら言葉を足した。
「…なんで急にしょげたのか分からないけど、慣れたのは海棠がしょっちゅう、あちこち連れて行くからだし、…そ、それと、どこでもいいっていうのは、海棠が選んだお店ならどこでもごはん美味しいって意味だから」
「ああ、…それなら良かった」
ふ、と笑みがこぼれた。たどたどしい気遣いを見せた比嘉に微笑を返したら、ふいとそっぽを向かれたが、耳がはっきり分かるほど赤くなっているのが見えて、いっそう笑みが深まった。
「…わ、笑ってないで、車、出せば」
「いや。せっかく可愛いんだ。もったいないからしばらく見蕩れていたい」
手の届く距離で手を出さずにただ見つめるというのも悪くない。本気でそう思っているのに、比嘉はからかわれたと思ったらしく、半眼になって車のドアを開けようとした。
「車出さないなら、僕、研究室に戻る」
「分かった、冗談だ。行くぞ」
「…海棠の冗談はつまらない」
落ち着かない様子で口だけは可愛げのないことを言う。それも申し分なく可愛かったから、海棠はおおいに気をよくして車を発進させた。
「ところでな、おまえ、自分のマンションへの帰り道は覚えたのか?」
大学の正門から大通りに出たあと、海棠はふと心配になって比嘉を横目で確認する。微妙に気まずそうな顔をした比嘉は聞こえなかったフリをすることにしたらしく、ふいっとまた助手席の窓の方に顔を向けた。
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