プロローグ

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プロローグ

 友人が言うところの、海棠の「10年来の思い人」は本日もすこぶる不機嫌だった。  比嘉敦啓(ひがあつひろ)。20代後半の彼は、綺麗に整った容貌をもったいないくらい盛大にしかめて、大学の研究室から追い出されるようにして出てきた。廊下のひんやりとした空気にさらされ、肉づきの薄い肩をふるりと震わせると、恨めしそうな視線を向けてくる。5月の半ばにしては曇り続きで気温が低く、夕暮れ時の廊下は壁も床もしんと冷えていた。  比嘉の背中を押しながら一緒に出てきた小柄な男子学生が、比嘉にジャケットを手渡す。 「先生、はい上着。おつかれさまでした。海棠さんもお迎えおつかれさまです」 「ああ」  比嘉がこの大学の研究室に着任してからまだ二月と経っていないが、週に二度は迎えに来ているから、他の講師や出入りする学生たちとはほとんど顔見知りだ。にこにこと人懐っこい笑顔を浮かべている学生に、海棠は手提げの紙袋を渡した。 「いつも面倒かけて悪いな、絵馬。差し入れだ。みんなで食べてくれ」  有名店の大福だ。海棠が研究室まで迎えに来ても比嘉は自分からは決して出てこないから、帰り支度を手伝って送り出してくれる学生たちを味方につけておく必要がある。食欲旺盛な学生には腹持ちのいい菓子やファストフードの差し入れが抜群に効く。  待ってました、と絵馬が顔をほころばせる。 「遠慮なくいただきますっ」  素直に喜ぶ学生は可愛げがあっていい。特に小柄な絵馬はチワワを思わせて和む。
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