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⑧ ロベリア
「どういたしましょうね。これは幼いご令嬢にはじめての図案としてお教えするお花なのですが・・・。これより簡単な図案となると・・・」
ぼんやりとそう言いながら、わたくしが刺繍した泥団子のような糸の塊を。刺繍の先生は見つめ続けられたのです。
そうお話をしたのは、幼いころにこんな悪戯を私はしたのだよ、と話してくれたお返しのつもりだったのだけれど。
「ふっ」
へ?
確かに、公爵令息は。今!声に出して笑ったわ!
「す、すまない」という令息は頬を緩めていて。アルカイックスマイルでは無かったの。
その、初めて見た笑顔は懐かしくて。シュナイドー公爵令息もこんな人間味溢れる顔ができるんだわ。つられて笑いかけてしまって。
そうしたら、もっと深い笑顔を返してくれて。
・・・仲良くなれたのだわ。とわたしが思ってしまったのは仕方がないことだと思わない?
婚約者とふたりで。ランチをとるようになって。
個人的な話もするようになって。
わたしの気持ちも和らぎ始めてしまったのがいけなかったんだと思う。
またも・・・期待してしまったのだと思う。
それから数日後には。期待は砕かれてしまったのだけれど。
・ ・
その日。
忘れ物をして戻ってきた教室には、なんの偶然かリアトリス様ひとりしかいなくって。
わたしの席のそばの窓辺に。立って外を眺めていらした。
侍女を呼ぶべきだわ。ふたりきりになってしまうもの。
そう思ったけど。
わたしの気配に振り向いたリアトリス様が。
「ロベリア嬢。忘れ物かい?珍しいね。
俺はすぐに出ていくから、どうぞ」
そう言ってこちらへ一歩踏み出されたから。
「いいえ。お気になさらないで。おっしゃる通り、忘れ物なの。すぐにとって帰りますから」
わたしは大丈夫だと返事をした。侯爵家の方に出ていけだなんて、言うわけにはいかないわ。
「・・・じゃぁ。お言葉に甘えようかな」
いつものように。にこりと笑いかけてくださるリアトリス様。
視線が・・・優しい瞳がまっすぐにわたしを見ていて。それをがつんと受け取ってしまった。
・・・その瞬間。
なにもかも放り出したくなった。
逃げ出したくなった。
だって気付いてしまった。
アルカイックスマイルをなくして笑っていても。公爵令息の瞳は変わらなかったという事に・・・瞳には、何の感情も表れていなかったという事に。
リアトリス様のように優しくわたしを見たりしないということに。
大嫌いなわたしに対しても公爵令息は、楽しく話ができる人なのだってことに。
気合を入れて頑張っていたからこそ。
嫌われている相手に好かれる努力くらいむなしいものは無いんだわ。
・・・なんだかとても嫌になってしまった。
一度だけ。たった一度くらいいいじゃない。
そう言い訳して・・・わたしは躓いたふりをしてしまった。
だってね。リアトリス様は優しくこちらを見てくれるの。
あの・・・感情のない瞳は嫌い。
わたしはもう・・・あの瞳から逃げたい・・・。
わたしがリアトリス様に抱いているのは。
恋とは多分呼べない、ほんのりした・・・気持ち。
それでも。
辛いこれからのために・・・。
思い出が欲しかった?
うん。その言い方が一番ぴったりくるのかもしれない。
これから先、夫となる人には愛してもらえないとはっきりしているんだもの。愛されない妻として、それでもあの冷たい瞳を見返さなければならない。
こんなわたしにも学生時代のロマンスがあったんだから。
そんな思い出が欲しい。
・・・馬鹿みたいな理由で。わたしはリアトリス様に甘えたんだわ。
躓いたふりをしたわたしを。
「あぶない」
リアトリス様は、さっと支えてくれた。
爽やかな香り。しっかりとした胸板。大きな手。
そっと。本当にそっと支えてくれるその手に優しさしか感じなくて。
嬉しく思うわたしは本当に馬鹿。
ねぇ。少しはわたしを特別に思ってくれてた?
わたしも・・・あなたを好きになりたいと思い始めてたの。
「ご、ごめんね。ありがとう」
・・・ほんとに。ありがとう。
そう思って。
急いで離れようとしたのに。
ぎゅっと抱きしめられた。
え??
ほんの少しだけ。しがみつきたい気がした。
だけど。
とっても不思議なことに。
シュナイドー公爵令息の顔が浮かんで。
しかもあり得ない・・・絵のように笑った顔が浮かんで。
「お離しください」
静かに。そう声が出ていた。
「・・・いやだ。
シュナイドー公爵家の借金を。肩代わりしてはいけないだろうか。
今すぐ俺を好きになってとは言わない。けど。政略結婚する気だったんだ。
・・・婚約者が俺に代わってもあなたには違いはないだろう?」
そんなことまで言ってくれるなんて思ってなかった。
そうしたら幸せになれるわって思えるのに・・・浮かんでくるのはプラチナブロンドに紅い瞳。
「違いはありますわ」
確かにネームバリューというなら。失礼ながら、どちらも変わらないわ。
だけど今。伯爵家は、公爵家との化粧品開発に手を付けている。
ソースベリ侯爵家は武門の家柄。共同に開発できる商品はぱっと浮かんでこない。この平和な時代では。武器や防具がそれほど売れるはずがない。
我がソルティン伯爵家に何の利益も生まないの。
わたしの言葉に衝撃を受けた彼を。
少し押すだけで、腕は離れる。
急いで教室を出る。
足がもつれてしまうのは、残りたいからじゃなく。馬鹿なことをしてしまったと思うせい。
公爵家がいいんだ。ととれる発言に、がっかりしてくれたわよね。
最低な女だと思ってくれたらいいわ。
次の恋をしてね。と思えるくらいには好きだったし、好きじゃなかったもの。
廊下へ出たとたん。
柱の陰にシュナイドー公爵家令息が居ると気づく。
きっと見ていたはずなのに。
隠れたまま?
出てきて何かを言ってはくれないのね。
当たり前よね。何の興味もない婚約者。義務からきちんとエスコートするだけ。その瞳にはわたしに対する感情など一度も見たことがない。
息が・・・詰まる。
まだ。わたしは傷つくのねぇと驚く。
もう一切。期待なんかしていなかったはずなのに。
彼に気づかないふりで通り過ぎる。
・・・お父様、兄さま、ごめんなさい。
公爵令息はやっぱり。わたしなど好きにはならないわ。
でも大丈夫よ。仲のいい夫婦のふりをして。相手を煩わすことのない同居人として。干渉せずに過ごしていけるわ。
わたしが我慢すればいいだけなんだもの。わたしを優しく見てほしいと思う気持ちを。
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