序章

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 鈴音の足が、また動きを止めた。誰かに、名を呼ばれたような気がし、彼女は耳を澄ます。しばらくもしない内に、今度は確かにその声が聞こえた。声の主に気が付いた鈴音は、唇を喜ばし気に緩めながら、振り返る。  そこには、茜の日を背に、女が立っていた。女は、紺の着物を纏い、髪を結いあげ、綺麗な装いをしており、鈴音とは対照的である。  そんな女は、鈴音が振り返ったことに気が付き、彼女に向けて手を振った。 「鈴音様ぁぁ、帰りましょう!」  少し低めの女の声が、鈴音を家路へと誘う。その姿を目にし、声を体に感じた途端、鈴音の足から重みが消え、歩いた道を軽快に駆け戻っていた。  勢いよく、走ってきた鈴音のことを、女は両手を広げて受け止める。 「お帰りなさいませ、鈴音様。」  女が、優しく微笑みながら告げると、鈴音も同じように顔を緩ませた。 「あぁ、ただいま、静代。」  鈴音は、静代の胸に顔を埋め、その温もりに、こみあげる涙を必死で堪えた。それを知ってか知らずか、静代は胸中の小さな頭を片手で包みながら、もう片方の余った手で、背中を撫でるように叩く。 「こんなに冷たくなってしまっては、お風邪を召してしまいますよ。 さぁ、鈴音様、日が暮れてしまう前に帰りましょう。」  静代は、腕の中で丸くなっている鈴音に、そっと呟く。 「そうだな、帰ろう。」  静代から体を離した鈴音は、代わりに彼女の手を握った。  それをきっかけに、二人は歩き始める。鈴音が、歩を進める度に、彼女の腰の刀の柄と鍔の間に結び垂らされている鈴が、その身を揺らし、心地よい音を響かせていた。心を穏やかにしてくれるその音色は、鈴音の声によく似ていると、静代は思う。  ゆっくりと彼女に視線を向けると、鈴音もまたこちらに首を動かす。  その時、静代は彼女が紅を注していることに初めて気が付き、そうして驚いた。  何故なら、鈴音はかなり女性らしさというものが欠けているため、化粧など滅多の極みに近い程せず、また面倒だと嫌っているからだ。 (一体……何故紅を……。)  そう静代が疑問に思っていると、それを感じ取った、鈴音の紅色の唇が小さく開く。 「こっ、これは……あいつが……葛葉の馬鹿が無理矢理……。」  消えてしまいそうな、細々とした声で鈴音は話す。 (なるほど。)と、合点がいった静代は、きまりが悪そうに、そっぽを向いている鈴音の顔を覗き込み、「左様でございましたか。よく、お似合いでいらっしゃいますよ?」と言い、ふふっと笑った。  夕日に染められているせいなのか、恥ずかしがっているせいなのか、鈴音の頬と耳は真っ赤になっている。それを、面白がった静代はさらに、「とてもお綺麗で、可愛らしくありますよ?鈴音様、どう致しましょう、殿方が、貴方様に釘付けになられてしまいますよ、きっと。」と、付け足す。  頬を朱に染めながらも、いたって平静を装っているが、繋ぐ手から、鈴音の体温が上昇していることが感じられる。静代は、それが可笑しくて仕方が無い。必死に笑いをこらえていたが、とうとう、ふきだして笑ってしまう。 「ふふふふふふふっ、貴方様というお人は。何をそんなに恥ずかしがることがありましょうか。別に良いではございませんか。本当に、可愛らしいお方にございますこと、ふふふっ。」  鈴音は、あまりの羞恥に堪えきれなくなり、繋ぐ手を振り切る。 「静代っ!てめっ、いい加減にしろよ! アタイはもう一人で帰る、お前とは、一緒に帰らねぇかんなっ!」  そう言うと、静代をそこに残し、鈴音は走り出す。徐々に小さくなろうとする、その背中を見つめ、一人になった静代は、寂し気な笑顔を浮かべている。 「鈴音様……。 貴方様は、私の出会った女性の中で、一番お綺麗ですよ……。 本当に、誰よりも……。」  そう呟き終わると同時に、突然鈴音が振り返る。 「静代っ! 何やってんだ、さっさと帰るぞ!」  鈴が鳴ったような怒声が散らばり、言葉とは似合わない声だと、静代は失笑した。これ以上待たせてしまうと、鈴鳴る火山が噴火しかねないと思い、彼女は走り出す。  そんな二人の遥か頭上を、一羽の鳥が旋回している。まるで、今のこの一瞬を脳裏に焼き付けるかのようにだ。そうして、しばらくすると、鳥は羽を山へと向けた。彼女達と同じく、家路に着くために。 「ねぇ、鈴音様。」  隣に並んで歩く鈴音に、静代は問い掛けた。 「んだよ。」  未だに不機嫌な鈴音は、ぶっきらぼうに答える。 「こうして、二人でいる時は、他のどんな娯楽で時間を過ごすよりも、楽しうございますね。」  唐突な言葉に驚いたのか、鈴音は少し黙っていたが、「そうだな。」と微笑した。 「これからも、散歩しましょうね。」 「あぁ、約束だぞ?静代。」  機嫌が悪かったことなど忘れ、鈴音は、自ら静代に指切りを求めた。小指同士を絡め合わせ、二人は笑顔を浮かべる。  春の陽気を感じさせるような時を流す二人の背後では、これから起こる時代の荒波を暗示する、冷たい風が大きな音を立てて吹くのであった。
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