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黒猫と赤い月
身体が硬直して、動けなくなった。
赤い封筒が磁石のように、視線を吸いつけて離さない。
しばらくして蒸し暑い部屋の空気が、意識を引き戻した。
「もしかして」
窓辺に駆け寄り、ロックを外す。
2重サッシの大窓を空けると、夜の空気が涼やかに首筋をなでる。
外を見渡したが、それらしい人物は見当たらなかった。
ふと、隣の塀に目を留めた。
「黒猫─── 」
銀色の眼だけがキラリと光り、影に溶け込むような漆黒の毛並み。
こちらをじっと見つめている猫に、見覚えがある気がした。
ずっと前から考えていたことが、脳裏に浮かぶ。
つぶやくように、口を突いてでた。
「1889年、パリ万博までお願いします」
猫が目を細め、短く鳴いた。
そして、塀から飛び降りたのか、突然視界から消えた。
満月は低く、赤みがかっている。
月明りが力強く光を放ち、現実のものだと語りかける。
風景が黒いシルエットになり、空の薄明りに浮かび上がっていた。
香苗は窓を閉め、デスクに向き直った。
そして、非現実の世界への招待状を手に取る。
赤い封筒の真ん中に『菊田 香苗様』と大きく書かれているほかは、何もない。
手に取ってみると、紙が一枚入っているようだった。
リビングへ降りていき、テーブルの隅にある卵型のレターオープナーを手に取った。
「お母さん、来たみたい」
読書をしていた母が、顔を上げた。
リビングには、4人がけのテーブルと茶箪笥、そしてカウンターキッチンがある。
階段下にすぐテーブルがあるので、リビングにいれば必ず顔を合わせる設計である。
いつも降りてきては溜まった手紙を開封しているが、今日は慎重だった。
トントンと数回手紙でテーブルを叩き、しっかりと中身が偏っていることを確認した。
手で触ってみて、また確認する。
手紙はまた企画書なのだろうか。
もしかすると、具体的に日程が書かれているのかもしれない。
100年以上前のパリへ行くとしたら、何が起こるか分からない。
今日まで様々なことを考え、想定してきた。
でも、本当に行けると思って考えたわけではなかった。
現実味を帯びると、食事、着替え、泊るところなど、一般的な海外旅行の準備は必要だろう。
それだけではない。
産業革命による新技術に湧く反面、労働問題が深刻化して街はスラム化したと聞く。
公害問題は、現在とは比較にならないほどで、貧富の差が激しかった。
だから治安も悪いかもしれない。
服装は、新素材の真新しいファッションは避けるべきだろう。
スマホなどの情報端末はあまり役に立たない。
予想外の出来事を避けるため、目的をはっきり決めて計画的に行動しなくてはならない。
行き帰りの電車の中で、何度もシミュレーションしてきた。
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