神様イミテーション

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 そういうことか……  あまりの事に言葉を失う楓と津川に、刑事は淡々と続ける。 「当該の学生はその研究書を借りた直後に中退し、すぐに亡くなっていました。記録上は事故ですが……転落死でして」 「!」  津川が痛ましそうに眉根を寄せる。転落死、となれば、自死の可能性もあったのだろうことは想像に難くない。遺書のような決定的な証拠がない場合、転落死は全て事故死になる。 「返却されないまま放置されたのも、そういう事情があれば有り得る話です。それどころではなかったでしょうから」  中退後、地元に帰ってすぐのことだったという。電話や書類での照会が行われ、物理的にかなり離れた学生の故郷には既に捜査員が派遣されていると云うが、 13年前の話だ。家族や縁者が残っていればいいが。  第一、その学生が件の書籍を地元に持ち帰らなかった可能性も高いのだ。引っ越しの際、他の蔵書と合わせて捨てたか古本屋に持ち込んだか。図書館の蔵書と分かっていながら引き取る筋の悪い古書店があるとは思いたくないが、古くなって処分するのを引き取った、と言われたら信じるだろう。古紙回収されたものが拾われるケースもあるかもしれない。そうなるとお手上げである。  いずれにせよ、 「つまり鷹司さんは、その学生の当時のことを確認にいらしたんですね?」 「ええ、ご明察です」  そもそも、それ以外でこの場所でこの人を見かける理由はないのだ。楓はすっかり冷めた茶を飲みながら、干支一回りした大学に、どれくらいその学生の残滓があるかと想像する。よほどの事がないと……難しいだろう。  三人の沈黙に唆されたか、廊下を行く学生の声が響く。「あれ、交通規制って続いてんの?」「まだ犯人捕まらんてどういうこと」「ケーサツも無能やなあ」と続いて、つい楓は腰を浮かせかけ、鷹司がそれを制して大きくため息を吐いた。 「13年はなかなか、時間的に厳しいですが、ここが最高学府で助かりました。まだ当時を知る先生方が残らはってて。分野的にもそれほど、入れ替わりがないとかで」 「まあ、旧帝は上がりみたいなものですからね……とはいえ、ひと世代はまわってますよね? どこの学科です?」 「数学科です」 「ええっ、数学!?」 「文学部ではなく?」  まあそうなりますよね、と刑事も同意しつつ、記録上も間違いないです、と断言した。宗教改革やルターに興味を持つ学生なら、当然その分野の所属と思い込んでいたが、まさか。 「でも、そうですね、ここでお見かけするということはそうなるか……」  理学部の学生だったのだ、その研究書の最後の借主は。  しかし数学科……間違いなくこの学部では勇者の集まりである。楓も知り合いの教員・学生を思い浮かべてみるが、宗教改革とはまったく重ならない。  ただ、純粋に世界の根源と向き合いたいという欲求は、数学と宗教、ひょっとしたら少し……重なるのかも、と楓がぼんやりと思考していたときだった。 「なるほど、それで当局は、あの頃と同じことを警戒しているんですね?」  あの頃?  はっ、と顔を上げると、眉間に皺を寄せた鷹司と、それを正面から見据える津川が居た。刑事も心当たりはある様子だ。 「……当時のことは、私も知りませんのでなんとも。ただ、お偉方は当時を思い出す向きも多いようで、宗教ですからね……もともと、大学と警察は全共闘の頃から犬猿の仲です。公安も動いてるとは、思います」  あの頃、というのが某宗教団体の捜査が行われていた時期のことだとは察しがついたが、全共闘まで出てくると全くの守備範囲外だ。楓は強くマグカップを握り締める。 「少なくとも、A氏とルターの宗教改革の関係となると、我々も皆目見当も付きません。どうせなら、●●の件で強制捜査でも入っていてくれれば、と考えてしまいます。いや、それが出来なかった警察と検察の落ち度ですが」  残念ながら、生前のA氏には様々な疑惑があった。三代にわたって政治家を務めたサラブレッドだけあって、華々しい経歴や派手な言動で注目も集めた。政治献金にまつわる噂も絶えず、一時期は首相退任後、すぐに強制捜査が行われるのではという憶測さえ飛んでいたのだ。捜査二課の刑事として、鷹司としても砂を噛むような思いもあるだろう。  なにより、あってはならない事件の被害者となってしまった今は。 「死なれてしまういうのは、最悪なんです」
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