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あれ、でも、とそこで津川が疑義を呈する。
見つかったルターの『95ヶ条の論題』等の研究書を、彼女は何のために借りていたのか。
「瑞穂さん自身がそれをよしとしなかった、というより、ひょっとして、宗教改革を調べていたといいうことは」
「待って下さい、津川先生、それはつまり」
ぱん、と綾野が手のひらを打合せ、津川と楓を遮った。
すみませーん、ブレンドお替わり!とマスターに声を掛け、三人で冷め切った残りのコーヒーをすすった。各々、脳内でこれまでの情報を整理している。そうでもしないと……言ってはいけないことまで口にしそうな気がした。楓は大きくため息を吐く。
そして、ここからは私の妄想です、と綾野は厳かに宣言した。
「鶴岡兄妹の母親は、瑞穂さんを次の教祖にしたかった。彼女にとってはそれが人生の”上がり”です。喪ったものを全て取り返す、乾坤一擲の一手だった。一方、瑞穂さんは母親とは別の“信仰”をもっていた。自分にかけられた期待や思惑を分かって尚、それに疑問を持つ純粋さと信念があった。更に、航平さんにとってはそれはどちらも寝耳に水です。あってはならないことだった」
家族であろうと他人は他人だ。しかも、三人の思惑は絶望的に相容れない。その溝はあまりに深く、相互理解が及ぶところでもなければ、法律や規則も意味がない。そうして、どうしようもなくすれ違った家族は決定的な決裂を迎える。
「実は、瑞穂さんの転落死と母親の死亡、これは病死となっていますが、実は教団の施設内で起こっています。死亡診断書を書いたのも教団のお抱え医師、信徒のひとりです」
再度、楓は絶句した。
それでは、なにひとつ信用できないのではないか。
「記録によれば、まず瑞穂さんが転落死し、その後、母親が病死。ですが、真相は藪の中です。たとえば瑞穂さんは退学後に死亡と報告されていますが、それさえ疑わしい。退学の手続きは本人でなくても出来ます。二人の間に何があったのか、どうしてそうなったのか……更に悪いことに、ちょうどその時期、航平さんは海外派遣されていて、二人の死亡を知ったのは帰国後だそうです」
「なんだって!? そんなまさか、血縁の死亡だぞ、連絡が」
と、言ってから楓も口を閉じる。
ふつうの……家庭ではないのだ。二人がいたのもふつうの場所ではない。ある意味、こことは違う”他所の国”だ。彼にそれを伝えてくれる人物はいなかったし、彼が二人に連絡を取ろうとしても、教団の連中が口裏を合わせ、修行中だ、旅行中だと言えば追求できなかったのではないか。なんなら、メールの偽造ぐらいは出来るのだ。
やっとの思いで帰国した祖国で絶望に直面した息子は、兄は、どうしただろうか。
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