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電話は一度諦め、研究室のMLに事件発生の報だけ入れて、楓は赤谷早苗を伴って店内に戻った。
客人達と京都市内の地図を覗き込んでいた津川が、ひょいと顔を上げる。
「早かったね。あれ?」
「えー、すみません、ちょうど店の前で偶然……こちら、赤谷投手のお姉さんです」
「ん、赤谷、ということはアカヤ紳士服の」
「はい、赤谷早苗と申します。こんなところですが、お目にかかれて光栄です。いつもお噂はかねがね」
津川には既に大家のチームメイトも引き合わせている。桃園をはじめ研究室のメンバーと試合を見に行くほか、なぜか一緒に新年会をしたこともある。生粋のハマっ子である津川曰く、リーグが違うから気が楽、とのことだ。
混乱の中、出くわした婦人は大家の同僚、赤谷祐輔の実姉だった。現アカヤ紳士服会長の次女でもある。
祐輔は遅くに生まれた末っ子長男で、姉達とは一回り離れている。三人の姉は各々婿を取って家業に勤しんでいるそうだが、早苗は新規開発部門を担当し、特殊繊維の開発等も手掛けている。弟と新素材のウェアなどを試しているだけあって、楓とも顔を合わせる機会があった。
南米の客人達に津川が簡単に解説する横で、楓は早苗に問い掛ける。
「今日はお仕事ですか?」
「そうそう。最近は日常に和装をってコンセプトで、絹以外の素材も試してるんだけど。今日は馴染みの職人さんのところに伺ったらこの騒ぎで……車も出せへんようになって、往生してたらちょうど山科先生が」
彼女の足元にうずたかく積まれた荷物は、その新素材と諸々資料なのだろう。書類ケースや、おそらくノートPCやら図面などもあるに違いない。
「あっ、失礼しました。この暑さで大変でしたでしょう」
と、津川が腰を上げる。ご婦人を立たせてはいけないと、レディファーストを叩き込まれている紳士達は、進んで席を空けて早苗を座らせた。外はまだ混乱が続いているようで、店内は更に人が増えている。
周囲も事件の話でもちりきりで、楓もさすがに眉を寄せた。
「しばらく車は無理でしょうね。お戻りは大阪ですよね?」
「そうねえ。電車でこの荷物もキビシイかなあ」
この混乱では社員を呼ぶにも難しいだろう。
「しゃあないね、実家に寄ることにします。誰かいてるかもしれへんし」
「実家、というと、祇園の?」
噂に聞く赤谷会長宅であろうか。塔頭と見まごうお屋敷という、と楓が云うと「古いだけよう」と早苗はカラカラと笑う。
祇園なら本来、地下鉄であれば3駅ほどだ。
「ま、あそこなら歩いてもなんとか」
「それでもそのお荷物では大変でしょう。山科君、手伝ってあげたら?」
う、やはりきた、と声に出さずに呻きつつ、楓は何とか「そうですね」と頷いた。
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