番外編・雲の向こうはいつも青空

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 子猫を自宅に迎えたのが幸いにも土日だった為、基本的な躾は詩鶴が責任もって教え込む事が出来た。  「ねぇ基さん、この子すごく賢いよ。トイレの場所も三回くらいで覚えちゃった」  詩鶴が頭を撫でると、ふかふかのクッションに伏せった子猫は、微笑むように半月状に目を細める。  まだ活発な動きは見せないけれど、多少は歩き回るし食事や排泄は問題なく出来る。自力で動けずに震えていた初日に比べたら、随分元気になったと思う。  土日の二日間、詩鶴は飽きもせず子猫の姿を眺めていた。そんな詩鶴の傍らで、基は仕事をしている。  「職場の仲いい友達に猫好きの子がいるの。猫友達もいっぱいいるらしいから、里親探しに協力してくれるって」  「猫友達…」  耳慣れない単語に、基は可笑しそうに口元を歪ませた。  「もしその伝手(つて)で見つからなければ、僕も編集とか知り合いに当たってみるよ。こいつは器量も悪くない。健康状態の問題さえなくなれば、すぐにいい飼い主が見つかるだろ」  「うん、そうだよね。ありがとう」    二人に見つめられている内にもっと構って欲しくなったのか、子猫はカリカリと詩鶴の膝を引っ掻き始める。  「ん?抱っこして欲しいの?」  抱き上げて膝に乗せると、満足そうに喉を鳴らして丸くなった。  かわいい。たまらなくかわいい。  「なんだろ、この満ち足りた気持ち…。独身の内に猫を飼うと結婚出来なくなるって都市伝説、本当かもって気がしてきた」  「そうか。こいつが来たのが婚姻届を出した後で良かったよ」    ぎゅうぎゅうに抱き締めてしまいたい気持ちが湧いて出るが、そんな事をしたら子猫が潰れてしまう。ぐっと堪えて、そおっと猫の背を撫で続けた。          ♢♢♢  子猫の里親候補はその翌週には見つかった。  猫好きの同僚、和歌のご近所さんが飼いたいと言ってくれているらしい。  「五十代くらいのご夫婦で、もう先住猫がいるんだけど、猫大好きだからもう一匹くらいなら大丈夫って言ってくれてるんだ。予防接種とかは詩鶴の方で出来そう?」  「うん、こないだ獣医さんと相談してきた。順調にいけば来月には出来るだろうって。他にこっちで済ませておいた方がいいことあるかな?私そういうの詳しくないから…」  「んー。理想を言えば去勢手術も済んでた方がいいんだけど、まだそこまでの月齢じゃないからね。健康診断と予防接種してくれてたら充分って言ってたよ」  和歌の家に住む三匹の猫も、予定外に産まれた子猫を譲り受けたり捨てられていた子を拾ったりしたそうだ。時々譲渡会の手伝い等もしているらしく、さすがに詳しい。  ペットを飼った経験のない詩鶴には、親身に相談に乗ってくれる友達の存在は頼もしかった。  「トイレとかベッドとか猫グッズも基さんが一式揃えてくれたんだ。一緒に貰ってもらえるかな?」  「うん、あれば助かると思う。旦那さん、協力的なんだね」  「そうなの。最初は自分は役に立たないと思うとか言ってたけど、全然そんなことない。私の仕事中もこまめに見てくれてるみたいで、留守中の様子とか詳しく教えてくれるの」  にゃー太とは、詩鶴が子猫に付けた仮の名前だ。猫とかにゃんこと呼び続けるのに何となく抵抗を感じて暫定的にそう呼んだら、基や和歌にまで定着してきてしまった。  「にゃー太は運がいいよ。拾い主が家族の反対とか金銭的な負担が難しいとかで一時的な保護も出来なくて、どうしようって困ってる間に亡くなる子猫、結構多いんだ。…偶々庭にいた子猫に責任もてる人なら、きっと悪い人じゃないね。詩鶴の旦那さんがいい人そうで安心した」  そう言って和歌はにっこり笑った。  子猫から基へと話が移ったことに詩鶴は戸惑ったけれど、照れ臭そうに口を曲げつつ、頷いた。  「……うん。有り難いなって思ってる」    いい人、と形容出来るような善良な雰囲気とはかけ離れていたけれど、確かに基は拾った当の詩鶴と同じだけ、責任もってにゃー太の世話をしてくれている。  「いきなり結婚決めたって聞いた時はびっくりしたし心配したけど。このまま夫婦として生活続けてさ。何年後かに、結果的には良かったねってふうに、なるといいね」    あぁ。そうだなぁ。そうなるといいな。  和歌の口調はざっくばらんだったけれど、詩鶴は心からそう思った。  今はまだ、先のことなんてまるで見えない日々だけれど、でもいつか───  「詩鶴先生ー!御主人からお電話ですよー」  詩鶴の物思いを打ち消すように、事務員が電話の子機を持って二人のいる体育ホールに顔を出す。  「えっ、珍しい。何だろ」  保育時間は終了していたが、翌日の体操の時間の為の準備をしている最中だ。  仕事中だから自分の携帯電話はロッカーに仕舞い込んでいて、連絡を取ろうとすれば園の電話に掛けるしかない。    それだけ急を要する用件だということだ。  どことなく嫌な予感がして、慌てて差し出された子機を受け取り保留を解除する。  受話器の向こうから基の低い声が聞こえる。  詩鶴の嫌な予感は、的中した。  「──にゃー太が?」  詩鶴の全身から、さぁっと血の気が引いていった。
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