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耳を澄ませば、カコーンとししおどしの鳴る音が聴こえてくる高級料亭。そんな店に入るのは、生まれて初めてだった。
そこで詩鶴は、十日ぶりに会う光稀の口から、思いもよらないその言葉を聞いたのだった。
「え…?」
耳を疑う、という以前に、それは詩鶴の鼓膜より内側に浸透して来なかった。
言葉の意味をまるで理解出来なかった。
顔を上げて真っ直ぐに、斜め前の席で正座している光稀を見詰める。光稀は握った両の拳を膝の上で震わせて、じっと下を向いていた。
「……今、何て?」
「貴女とは結婚出来ないと、息子はそう言いました」
問い掛けた詩鶴に答えたのは、光稀本人ではなくその隣に座る光稀の母親だった。
詩鶴は這うようにぎこちなく首を動かして、光稀の母に視線を移す。
「それは、どういう…」
「そのままの意味です。光稀は貴女と結婚しません」
「どうして」
「貴女が澤田家に相応しくないから」
光稀の母の冷たい声に、詩鶴はひゅっと息を呑んだ。
光稀の母に会うのはこれが初めてではない。
四国にある光稀の実家には、付き合って一年ほど経った頃、一度挨拶に行った。
歯科医である光稀の家系が地元で大きな病院を経営していることは、一応事前に聞いてはいた。
だが実際に訪れた光稀の実家は想像を超える豪邸で、ごく一般的な家庭で育った詩鶴は思わず震え上がったものだった。
とは言え、その時は光稀の父も母も和やかに詩鶴を迎えてくれた。
「無駄に広くて仰々しいけど、古いだけでね。雨漏りとかもしちゃうのよ」
冗談混じりにそう言って、畏まる詩鶴の緊張をほぐそうとしてくれたりもしたのだけれど──。
今目の前にいる光稀の母は、その時とは別人のように冷たく硬質な顔をしている。
「…相応しくないというのは…家柄とか…そういう意味ですか?」
光稀の実家を眼前に立ち竦んだその時と同じように、詩鶴の心は縮み上がっていた。
それを無理矢理奮い立たせて、詩鶴は光稀の母に問う。
「貴女の家柄なんてどうでもいいの。問題は貴女と光稀の相性ね」
光稀の母は日本酒の入った猪口を傾けながら、つまらなそうにそう言った。
「恋人として楽しむだけなら特に問題なかったんだけれど。光稀が貴女と結婚するって言い出したから、調べさせて貰ったわ。貴女の遺伝子」
「──遺伝子?」
詩鶴はぽかんとして、思わず間の抜けた声を出した。
「そう。貴女と光稀は相性が悪いみたいでね。二人とも生殖機能に問題はないのに、この組み合わせだと子供が出来にくいらしいのよ。百パーセント無理って訳ではないらしいんだけど、週に二、三回子作りに励んでも、十年に一回妊娠するかしないかくらいの確率なんですって。光稀はうちの唯一の跡取りだし、お嫁さんには必ず子供を産んで貰わないと困るのよ。だからちょっと人を雇って、貴女の細胞こっそり採ってきて貰って…そんな事が事前に調べられるなんて、便利な世の中になったものよね。光稀のお嫁さんも、実はもう決めてあるの。光稀もね、もう三十過ぎだしねぇ。最近よくニュースでやってる、なんだったかしら、最新の…その、便利な子作りお見合いシステム?それを取り入れた結婚紹介所で、妊娠しやすいお相手見つけて」
ふふっと笑った光稀の母の高い声に、詩鶴の全身からざっと血の気が引いた。
細胞を採った…盗った?
どうやって、いつのまに?
「そんな大した事はしてないわ。お金と人脈があれば色んな事が簡単に出来るっていうだけよ」
詩鶴の心の内を読んだように、光稀の母はにっこりと笑った。
こんな──。
こんな人だった?
「光稀は田舎育ちだから、都会で危ない目に合わないように見張っていてちょうだいね」
数年前に会ったあの時、初めて会った息子の彼女にそんなふうに笑いかけていた彼女は。
一皮剥けば、こんな不気味な笑みを浮かべる人だったのか。
詩鶴は縋るような気持ちで、光稀に向き直った。
お願い、何か。
何か言って。
何でもいい、この母親の行為を、否定する言葉を。
だが光稀は俯いたきり、唇を引き結んで何も語らなかった。
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