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呆然としている詩鶴の前に、光稀の母は鞄から分厚い封筒を取り出して、すっとテーブルの上に置いた。
「光稀が気安く結婚の約束をしてしまっていたようだから、これはそのお詫びの気持ち。受け取って」
これは映画かドラマか、それとも芝居か。
どこか自分とは遠く離れた場所で起こっている出来事を眺めるような気持ちで、詩鶴はその分厚い封筒を見つめた。
「籍を入れる前で良かったわ。お話はこれだけ、おしまいね。私はお先に失礼するわ。折角東京に来たからいっぱいお買い物したいの」
光稀の母はのそりと立ち上がり、しなるような足取りで襖を開け部屋から出て行った。
この部屋の空気を動かしていた光稀の母の気配が消えると、途端に重い沈黙が立ち込めた。
「──光稀」
どれだけ時間が経ったかわからない。
長い沈黙の後に詩鶴が声を発すると、光稀はびくっと大きく肩を震わせた。
「──光稀。お願い、何か言って」
どれだけ考えても、光稀が詩鶴との関係を、この将来の約束を、なかったことにしようとしてるなんて思えなかった。
好きだった。
少し人見知りで、照れ屋で。
不器用なくらい真面目で、ちょっと優柔不断で、気の利いた事も言えなくて。
でも優しくて、いつでも詩鶴の話を真摯に聞いてくれて、疲れたと弱音を吐けば、下手な手料理や甘い菓子を出して労わってくれた。
四年もの間、目一杯、光稀の事を好きだった。
それは光稀も同じだと、信じていた。
信じていたのに。
「ごめん」
光稀はそれだけ言って、正座をしたまま畳に両掌と額を着けた。
それはいわゆる土下座の姿勢だったけれど、詩鶴には、蹲って震えているように見えた。
「ごめん。詩鶴──ごめんな」
先週、光稀とはあまり連絡が取れなかった。
歯科医院に勤める光稀は、比較的勤務時間が安定している。お互い家も近かったから週に二、三回会うのは難しくなかったし、光稀は律儀な性格だから、会えない日でも電話やメッセージの遣り取りを怠らなかった。
それが十日程前からふっつりと連絡が途絶え、詩鶴からの電話にもメッセージにも最低限の応対しかなかった。
心配する詩鶴に光稀は仕事でトラブルがあって、と言い難そうに説明していたが、本当はこの件で忙しかったのだろう。
光稀が親の経営する病院を将来的に継ぐつもりだということは、詩鶴も承知していた。
今の仕事は楽しかったし、やり甲斐も感じていた。結婚したら詩鶴も退職してそちらに移住する事にはなるけれど、幼稚園や保育園はどこにでもある。再就職も出来るはずだ。
家の事や光稀の仕事は気にせず、詩鶴の望む形で仕事を続けてくれて構わない。光稀はそう言っていたし、場所が変わっても続けられるのであれば、ついて行こうと思った。
「どうして?」
「───子供、が」
ぼんやりと問い掛けた詩鶴に、光稀は長い沈黙の後、それだけ言った。
『お嫁さんには必ず子供を産んで貰わないと困るのよ』
光稀の母の声が、頭の中で再生された。
わかってる。
四年も付き合っていたから。この先もずっと一緒にいようと思ったくらい好きだったから、わかってる。
光稀は冗談や気の迷いで、こんな事しない。
詩鶴の知らないところで一人、何日も、悩んで悩んで悩み抜いて、出した結論なのだろう。
一人で、勝手に。
詩鶴はテーブルに置かれていた封筒を手に取ると、思いきり力を込めて、光稀に向かって投げ付けた。
それはばしっと鈍い音を立てて光稀の肩に当たり、畳の上に紙幣が散らばった。
「────大っ嫌い」
涙の代わりに、詩鶴の喉から勝手にその言葉が飛び出した。俯いた光稀が苦しげに顔を歪めるのが、目の端に映る。
薬指に嵌めていた指輪を引きちぎるように取って、それも力一杯放り投げた。
指輪は光稀を通り越し、その向こうの壁にかつんと当たって、音もなく畳の上に転げ落ちた。
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