おとなになったら

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 ずるい、と三矢は言った。ずるいのはそっちだと浅野は思う。おとななら、手の内をそっと隠して言葉を繋げてほしかった。  このひとのだめなところは、隠している振りをするところだ。本気じゃないところだ。たとえばふたりの後ろめたい関係性について、「おまえならどうする?」と浅野にゆだねようとする小手先の小賢しさが昔からいけ好かない。憎たらしいんじゃなくて、憎い。意地悪してやりたくなる。  俺の心なんてものは、もうずっと変わらないのに。 「ほんとうにいいの? あんたどうせ見られたときの言い訳ばっか考えてんだろ」  ふん、とわざと茶化して言ってやると、三矢はかすかに口をとがらせた。「ちげえし」というつっけんどんな口ぶりは、いくつの子が使うものなのだろうと思うと笑えた。 「オレだってたまにはおまえと浮かれたりしたいの、べつにクリスマスだからってわけじゃなくて、外で飯食ってはしゃいで、今までだってそういうのしてなかったわけじゃねえけどさ、カフェとかラーメンとか居酒屋じゃなくて、ちょっと気取った店にだってたまには行きたい」  ときどき戸惑うように、立ち止まりながら三矢は言葉を繋げた。三矢は浅野の言葉を「横文字がひらがな」と言ったが、彼の今の言葉をかたちにするとしたら、「一生懸命」だと思う。  コウちゃんは、あざといんじゃない。ばかなんだ。世間体をだれよりも気にするくせに俺を好きになって、とてもとても現実主義者のくせに、俺との未来をちょっとだけ夢見がちに描こうとする。ばかやろう、ほんとうは信じてなんてないくせに。  だけど、「ばか」と同時にこういうとき、必ず「大好き」が浮かぶ。同列になって、同じ瞬間にやってくるのが不思議だった。 「つーか浅野はさ、気にしないわけ? そういうの」 「気にしたことない。飯なんてだれとでも食うだろ」 「職場のひととか、仕事関係者とか、ほら整備担当したお客さんとかさ」 「俺あんたみたいにナルシストじゃねえもん、自分が見られてるとかまず考えねえし」 「な、な、ナルシストじゃねえし!」 「いやー、才能ありありだと思うんすけど」  ちがうわ! とわりと本気がちな強い口調で反論されるので、はいはいそうですねと返さざるを得ない。図星を突かれたばつの悪さゆえの荒ぶりには、てきとうに流すのが吉だ。  だけど。 「俺は、見られたってなに言われたって、べつにいいよ」 「え?」 「もしも万が一、俺とあんたの関係がバレたとして、学校にもいづらくなったとして、この土地にもいたくなくなったとしたら」  おとなになったらできること。責任を負えること。金銭面、生活面、仕事。やることを自分で選択できること。 「俺はべつに、ぜんぶ捨ててコウちゃんと逃げたっていいよ」  浅野の目の前には、空になった缶ビールがあった。爪で弾いたらきっと、ころんと音を立てて転がっていくにちがいない。  しん、と一瞬、部屋が静まり返る。その直後、はなをすする気配があって、浅野はぎょっと肩を揺らした。 「え、三矢さん?」 「ちがうし」 「いや、まだなんも言ってねえです」 「泣いてねーし」 「いやだから、聞いてねえし」  ずる、とはなをすすったあと、三矢は瞼を拭った。失敗した、と不意に浮かんだけれど、なにがどう失敗なのか、浅野にはわからなかった。 「ごめん、冗談だって。嘘だよ」  慌てる素振りはせず、落ち着いて三矢の背中をさすった。 「冗談とか、嘘にすんな」 「うん、そうだね」 「でも、捨てるとかも言うな」 「うん、そうだね」  ぽんぽんと、ゆっくり背中をさすりながら、おとなになったら、と考えた。  背が伸びた。手足がおとなのサイズになった。仕事ができた。生活面で苦労しなくなった。残酷な言葉とわかって傷つけるつもりで発言するようになった。自分ひとりでも生きていけるようになった。だけど、ひとりで生きていけなくなった。  嘘だよ、と言って、こわいものから逃げるようになった。コウちゃんの涙の理由を聞かず、ほんとうの気持ちを嘘にした。  おとなになったらできたこと。 了
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