おとなになったら

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おとなになったら

 風呂上がりのビール。おとなになったと思う瞬間のひとつ。 「浅野ー」  三矢が呼んだ。手招きしながら、彼はソファの前に座り、テーブルに肘をつき、スマホをすいすいスクロールしている。缶ビールを持ったまま、浅野はそこに近づいた。 「うまそうじゃねえ? なあ?」  見せられたのは、某グルメサイトではなく個人でつくったようなwebサイトで、店名は「アソート」と書いてある。写真をするするスワイプしていく三矢のしぐさはなめらかで、手慣れてんなあ、と浅野は思う。  予約受付のカレンダーは今月すでに埋まりかけており、クリスマスのご予約はお早めに、と添えてあった。ある種の謳い文句に釣られてこのひとは、店を決めるなら早めにしたいのかもしれない。そのあたり単純だから。 「いいよ、いつ? まあてきとうに予約しといてよ、そっちに合わせるわ」  三矢の隣に腰を下ろし、浅野はビールをあおった。あーうま、という自分の声が低くて、俺の声ってどんなんだっけ、とふと浮かぶことがある。 「え、まじで?」 「は? なにがだよ」 「いやだから、この店でいいの? って話」 「あんた失礼にもほどがあんな、ここのシェフさんに謝んなさい」  サイトには、若い男性シェフが料理をしている写真や、メインディッシュが彩りよくきれいに装われたうつわなどが載っている。これをつくったデザイナーの魅せかたなのかシェフ本人が巧みなのか、どちらかはわからないが、ひどく卓越して見えた。 「いやいやいや」 「はいコウちゃんごめんなさいしようね」 「……ってちがうわ!」 「あーもうなにがだよ」  だんだんとめんどうになり、浅野は缶ビールをテーブルに置いて、ソファに頭をゆだねた。髪がまだ濡れているせいで、革張りのソファの冷たさがいっそう頭皮に染みる。 「だっておまえ、こういう店行くのめんどくさがるじゃん」 「うまそうだったよ、ローストビーフ」 「横文字きらいじゃん、だいたいひらがなで発するじゃん」 「すげえね三矢先生、言葉が形で見えるんすね、さすが」 「テイクアウトできるって書いてあんじゃん」 「あーもうどっちだよ、行くの行かねえの」 「……」  急に口をつぐむ三矢の煮え切らないようすに、浅野は立ち上がってリビングを出た。濡れた髪をドライヤーで乾かし、またリビングに戻って残ったビールに口をつける。三矢はいまだにスマホをじいっと、目を眇めるようにして眺めていた。  おとなになったら、と考えた。子どものころは、早くおとなになりたかった。ちいさな手足も、足りない身長も、残酷すぎるほど素直な言葉を使うことも、むずかるように苛立った。できることが増えていく一方で自分の成長は希望にも満たず、未成年であることは浅野の幼さのよりどころにはいっさいならなかった。金銭的にも、仕事も、生活も、ひとりで賄えてひとりで生きる、すべての責任を負うことが、自分が身軽になる最適な方法なのだと。  今はそれができるのに、なんでだろう。現実を生きていくための荷物は、思った以上に重い。 「テイクアウトと、悩むよな」 「どっちでもいいんじゃない?」 「でも年末忙しいしな、クリスマス食いに行けないかもしんねえし」 「あんたほんと言い訳好きな」  また三矢は黙る。おおかた、あんなところでふたりで食事して、しかもクリスマスで、へたに誤解されたらどうしよう、というところだろう。生徒に見られたら、とか、同僚や保護者や、あのひとを形成する世間のすべてに。 「やっぱ行こう」 「いいよ、どっちでも」 「軽いなおまえ」 「だってどっちでもいいもん」 「もっとオレに興味持てや」 「持ってるよ」  即答したからか、三矢はぽかんとする。そして、耳のふちをうっすら桃色に染めて目を伏せるので、思いがけずちょっとかわいいなどと思ってしまう。 「コウちゃんとなら、べつにどっちでもいいよ。家でも、外でも」
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