ただしいこと

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ただしいこと

 クリスマス前から当日まで、街全体が浮き立っているけれど、暮らしのほうはさほどだと吉崎は思っている。しかも、このイベントが終われば薄情なほど簡単にお正月のディスプレイに変わってしまうのだ。  こんなのもう、週刊誌と同じじゃないか。実際、クリスマスイベントの特集なんて、一ヶ月以上も前に校了を終わらせてしまったし、とっくの昔に発売日はすぎた。やれ流行りのレストラン、やれおいしいケーキ、見栄えのいいツリー、見晴らしのいい絶景スポット。聞きつくしたし見つくした。  そんなやさぐれたことを考えるのは、クリスマス当日まで吉崎の仕事はいっぱいいっぱいだからだ。  この日の週刊現藝編集部も、年末ということもあって慌ただしい。これが終われば帰れる合併号だから休める、だけどそれ、入社当時からずっと言ってねえ? と考えているのも吉崎だけではないはずで。  机の上のスマホが光った。自然と目が行き、ラインの送信者の名前を見た。小杉だった。 『終わりそー?』  終わりません。 『ははは』  笑うな。 『また連絡して』  了解。  ささっと打ち終えると、椅子の背もたれにがつんと衝撃が走る。吉崎の苛立ちのボルテージが瞬時に上がって振り向いた。 「なんなんっすか!」  北村との前後の席は変わっておらず、もうそろそろ班替えじゃなくとも席替えをしてほしい。 「べつにー。なんか胸焼けしそうな気配がしてムカついただけ」  ひとのプライベートに茶化すしかすることないのかよ。暇人めが。  ぼそりとつぶやくと、今度は思いっきり椅子をぶつけられる。なんすか! うるせえのろけんな! 椅子に座ったまま言い合うと、佐々木編集長からストップという名の怒号が飛ぶ。やかましい! そこでぴたりと止み、しぶしぶ作業を再開した。  ふたたびパソコンを叩く音だけが響く編集部に戻ったところで、吉崎は無心になって原稿を書いた。めどがついたころ、背後から今度はふつうの声音がする。 「おまえ、きょうはデートなの?」  デートて。その言い回しにはいつも慣れない。あのひととふたりで過ごすことに逃げも隠れもしないけれど、恋人、とか、デート、と名がつくととたんに嘘くさい気がしてくるのだ。 「まあ、はい、世間的にはそうなんすかね、飯食いますけど、まあ」 「えー? 照れてんの?」  北村が椅子をぐいーっと寄せてきてうっとうしい。 「照れてねえです、言いかたに納得してないだけで」 「出たよまためんどくせえ吉崎論が」  深々とため息をつかれ、普段同様にかちんときて北村をにらむ。 「いいじゃんよ、両思いの相手と飯食うならもうデートじゃん。それっておかしいっすかね」  お疲れさんっした、せいぜいお楽しみくださいませ。  ぺっぺっ、と嫌味ったらしく唾を吐くしぐさを最後によこし、北村は席を立った。ゆるい挨拶を交わして編集部を出ていく。吉崎も区切りをつけ、パソコンの電源を落とす。肩甲骨を回すように両肩をぐるりと一周すると、ごきりと骨が揺れた気がした。  編集部を出て、ぽつぽつラインを打った。終わりました。今から向かって大丈夫? 送信。  待ち合わせ場所は決まっている。ちょっといい雰囲気の個室のビストロで、吉崎が取材で見つけた店だった。最近、仕事柄食事をする店は吉崎が選ぶことが多くなり、こうしたちょっとした瞬間は時間の経過をぽつんと感じさせる。自分はもう、とっくに成人だということを。  電車に揺られている最中、小杉から『今から向かいます』と短い返信があった。吉崎は、おれも向かってる、と返した。あのひととずいぶん長い時間一緒に過ごしているようだけど、不思議なもので、そうでもない。ずっと一緒にいるような錯覚って、意外とこわいことのように思う。けれどまた不思議なもので、この先一緒にいられないかもしれない、という恐怖はまったくなかった。  選択をするって、一種の覚悟だと思う。一緒にいる、いない、どちらにせよ決断は覚悟だ。吉崎は、「一緒にいない」覚悟はそもそも選ぶ気がなかった。
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