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「まあ、きっとそのうち忘れちゃえるよ」  うなだれているホツエに、わたしは適切なのかどうかわからないまま、そんな言葉を投げかけた。ホツエはゆるゆると頭を横に振る。それにあわせて、明るい茶色に染められた髪が少し揺れた。その隣ではシズエが頬杖をついてホツエのほうを見ながら、そうそう、と呟く。  学食でホツエとシズエとわたしは毎週そうしているように、三人で食事をとっていた。そして今日は先週に引きつづき、失恋して傷心のただなかにあるホツエを、わたしとシズエは慰めている。果たして慰めになっているのかどうかは、確信が持てないのだけれど。 「忘れちゃえる……、か」  ホツエが小さく呟いて、顔をあげた。そして窓の外へと目をやる。 「ごめん……」  わたしは思わずそう言った。 「どうして謝るの?」 「いや、なんか、気に障ったのかな、て……」  こちらに目を向けて問いかけるホツエに、わたしはそう答える。 「そんなんじゃないよ。でもさ……」  そこまで言って、ホツエは言葉を区切った。 「でも?」 「忘れちゃいたいけど、なんか、忘れちゃうのって、すこし寂しいような気もして」  続きを促すシズエに、ホツエが言葉を続た。 「人は忘れる生き物だよ」  シズエがそう言うとホツエは、そうだね、と言って少し笑った。それから手元のコップを手にとり、水を飲む。わたしもなんとなくそれにつられて、自分のコップを持って口元へと引きあげた。水を少しだけ口に含んで、舌の上で転がしてみる。遠くのテーブルから、知らない学生の大きな笑い声が聞こえた。  シズエは、忘れたのだろうか。高校二年生のときだったか――冬の寒い日だったことだけは覚えている――恋人にフラれちゃったよ、とシズエはあっけらかんと言った。ホツエはびっくりしたように、なんで、どうして、と繰りかえしていた。次第に、シズエを振るなんてありえない、と怒りはじめた。シズエはそんなホツエを笑いながらなだめていた。けれど数日後、ホツエはこっそりとわたしに教えてくれた。シズエ、ほんとうはめちゃくちゃショック受けてるみたいなの、と。夕食に手をつけず、ずっとぼんやりどこか遠くを見てるの……。  わたしがいるときには、ホツエは笑っていた。確かにその笑顔はどこか寂しげに見えた……、ような気もする。  ホツエとシズエは、似ているのに似ていない。わたしはふと、二人の顔をさっと見比べて、やっぱり似ている、と思った。 「どうしたの?」  シズエがわたしに問いかける。 「いや……、ホツエとシズエって、メイクの仕方が全然違うな、って……」  わたしは慌てて適当な――今までにも思ったことはあるけれど、ただそれをとっさに思いだせただけのこと――を、言う。 「双子だからってメイクまで同じにはしないよ」  そう言ってシズエが笑った。 「というか、むしろ顔が同じだからメイク変えてるの」  シズエの言葉を引きつぐようにホツエが言う。 「そうなの?」 「そんなわけないじゃん。双子だって好みまで一緒にはならないってだけ」  思わず問いかけたわたしに、シズエが笑いながら答えた。シズエの短い黒髪に、窓から差しこむ日の光が跳ねる。 「じゃあ、二人ともこの大学に来た理由は?」  わたしがなんとなくそう訊ねると、シズエが少し眉をひそめつつ口を開いた。 「言ったことなかったっけ。お父さんがここ出身でさ。それで学費も安いし、家から通えるしで、ここに入ってほしいって言われて」 「こっちとしてもさ、大学どこにするかとか悩む手間はぶけてラクだったんだよね。大学なんてどうせどこも一緒だろうし」  ホツエがシズエの後を続ける。わたしは、そんなことはないんじゃない、という言葉を口に出さずに飲みこんだ。 「アリカはどうしてここに入ったの?」  シズエに訊かれて、わたしは少し答えに詰まった。ホツエとシズエが行くって言ったから、と素直に答えるのは、なんだか恥ずかしかった。 「いやあ、なんとなく……」  濁したわたしの答えにシズエは、ふうん、と軽く相槌を打った。 「でも小学校から大学までずっと一緒ってさ、すごくない、私たち?」  ホツエが笑いながらそう言った。そうだねえ、とシズエはあまり興味なさそうに頷く。わたしは曖昧に笑みを浮かべておいた。  ほんとうにホツエは、表情がくるっと変わってしまう。さっきまでうなだれていたのが嘘のように、今にもはしゃぎだしそうなくらいだ。 「あ、私そろそろ行かなくちゃ」  シズエがそう言って立ちあがった。 「なんだっけ、化学……」 「工学化学だってば。じゃあね」  問いかけるホツエに答えながら、シズエは皿とコップの乗ったトレイを持って去っていく。 「学部とか学科とかは、どこでもいいって言われたの?」  小さくなっていくシズエの後ろ姿を見ながら、わたしはホツエに訊ねた。シズエは工学部に所属しているけれど、ホツエはわたしと同じように理学部に所属している。 「うん。中学生ぐらいまでは、医学部に行ってくれたらいいなあ、とか言われてたけど、まあ冗談じゃないかな。アリカはどうして理学部に、っていうか、数学科にしたの?」 「数学が好きだからだよ。ホツエこそなんで数学科にしたの?」 「私も一緒だよ。数学が好きだったから……」  わたしの問いにホツエは目を逸らしながら、どこか言葉を濁すように答える。 「好き『だった』って、今は嫌いなの?」 「なんていうか、私が好きなのは数学じゃなくて『アキトが好きな数学』だったんだと、思う。馬鹿だよねえ……」  ホツエは苦笑しながらそう言って、コップを手にとった。 「え、ああ、そうだったんだ……」  ホツエの元恋人の名前に少しうろたえながら、わたしは答える。ホツエはコップに口をつけて水を飲んだ。わたしがかけるべき言葉を必死に探していると、ホツエがコップをテーブルに置いて口を開いた。 「アリカは忘れちゃえたの?」 「え、なにを?」 「好きだった人のこととか」  ホツエの言葉にわたしは、うーん、と唸る。 「恋愛感情で、ってことだよね。わたし、そういう意味で誰かを好きなったことって、ないから……」 「ええ、それほんとう?」  そう言いながらホツエが笑ったので、わたしは頷いた。  ホツエの髪は染められて傷んでいるからなのか、窓から差しこむ日の光が跳ねることはなかった。わたしはコップに口をつけて、残っていた水を一気にあおった。少しぬるくなった水が、喉を通りぬけていく。またどこかの席から大きな笑い声が聞こえてきていることに気づいた。 「たしかに好きな人の話とか、恋人の話とか、聞いたことないけどさ。そうだったんだ」  ホツエがそう言ってから、なるほどねえ、と小さく呟いた。  わたしの頭の中ではホツエの言った、アリカは忘れちゃえたの、という言葉が何度も繰りかえされた。忘れてしまえばもう、忘れたいと思うことさえできなくなる。それは、しあわせなことだろうか。ホツエの言っていた「忘れちゃうのって、すこし寂しいような気もして」という言葉を思いかえすと、なんだか胸が軋むような気がした。けれど、わたしはきっとこれまでにたくさんのことを忘れてきたのだろう。忘れたことすら、忘れて。思いだせないのではなく、わたしの脳からすっかり消えてしまったものたち。それらに思いを馳せてみると、確かになんだか寂しいような気がした。たとえそれが、辛い記憶だったとしても。
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