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20
夜が明けた——。
英雄率いるアルトス傭兵団は国王軍、〈黒鷲〉部隊、それにエイバル率いる小隊を加えて、島の中央に向けて出陣した。
一行は昇り始めた朝陽を浴びながら進み、魔物の襲撃に遭うこともなく順調に歩を進めた。
昼を過ぎた頃、英雄たちは島の中央を分断するように流れるロタ川に到達した。
ロタの川幅は広く、流れもゆるやかで川底も浅いため徒歩で渡ることができる。
その先は見渡す限りの平原が広がり、所々に朽ち果てた廃墟が残っていた。
かつてその周辺に村があったことを示しているが、度重なる戦乱で破壊され打ち捨てられたこの土地は、草に覆われて忘れ去られようとしている。
先頭を行く英雄は馬を止め、後続の〈黒鷲〉部隊——ヨハンを振り返った。
ヨハンは部隊に目で合図をし、ひとり英雄の元に馬を向かわせた。
「ここがロタ川です」
英雄が川を示して言った。
「〈魔王〉軍はまだ動かないようですね」
ヨハンは平原を見晴るかす。
「そのようですね。どうしますか?」
「想定の範囲内です。このまま動きましょう」
英雄の問いにヨハンは何の感情も浮かべず応えた。
「我々はあの丘で〈庭〉を作ります」
ヨハンは川の後ろにある小高い丘——トラキスの丘を示して言った。
「わかりました。我々は川を越えた先で陣を張ります」
英雄が頷く。
「後は作戦通りに」
そう言うとヨハンは背を向けた。
「英雄殿ッ!」
隊列の後ろから声が上がり、エイバルが馬を駆ってふたりに近づく。
「俺は自由行動でいいのか?」
エイバルは不敵な笑みを浮かべて言った。
ヨハンは一瞥すると何事もなかったかのように部隊に戻って行った。
「さすがは死神殿。田舎の騎士には興味ないか」
エイバルが鼻で笑う。
「エイバル殿は我々と同じく前線で敵の侵攻を食い止めてください」
英雄は抑えた口調で言った。
「好きに暴れていい、と?」
エイバルは探るように鋼色の目を向ける。
「あなたもご自身の部隊を率いておられるが、国王軍に参加した以上、私の指揮に従ってもらいます」
瑠璃色の目はまっすぐ鋼色の目を見返す。
「……わかってるよ。俺も援軍として来ている以上、あんたには従うさ」
そうしないと兄貴に怒られるんだ、とエイバルは乾いた笑い声を上げた。
「無理言って前衛に変えてもらったんだ。十二分に働いて返すぜ」
「よろしくお願いいたします」
エイバルは英雄と数舜睨み合い、
「じゃあ俺たちも陣を張らせてもらう」
と馬首を巡らせて去って行った。
「大丈夫か、あれ」
後ろに控えていたガートルードが口を開く。
「あいつ、本来なら城の護衛だろう? 手薄にならんか?」
「大丈夫だよ。城にはミシェル殿がいる」
英雄は硬い表情を変えずに応えた。
「どうせなら兄貴の方に来て欲しかったな」
ガートルードが皮肉まじりに言う。
「確かに。ケイン殿の方が揉めないで済みそうだ。だが……」
ニアールはすでに遠目になったエイバルの後ろ姿を見ながら続けた。
「あの腕だ。戦力になるのは間違いない」
「そりゃそうだが、いざという時何をしでかすかわからんぞ」
ガートルードは片眉を上げて英雄を見遣った。
「その時は私が責任を取る」
英雄の声は驚くほど静かだったが、ニアールたちは逆に恐怖を感じた。
責任を取るという事が何を意味するのか、即座に理解したからだ。
「団長」
ドラウグが穏やかに声をかけた。
「私たちもそろそろ移動しよう」
「……あぁ、そうだな」
英雄は辺りを見回して言った。
〈黒鷲〉やエイバルの部隊はすでに移動し、各々の場所で陣を張り始めていた。
「さぁ皆、行こう」
英雄が号令を出すと傭兵団を先頭に、国王軍が動き出す。
漂っていた緊張感が消え、後ろで見守っていたウィスカたちはそっと胸を撫で下ろした。
「……よかったね」
「ほんと、一時はどうなるかと思った」
ウィスカとミュリエルは馬を並べてひそひそと言葉を交わす。
「ちゃんと前を見てくださいね」
よそ見しがちなふたりにマドラ・ルアが注意を促す。
「はーい。あッ」
不意に強い風が吹いてミュリエルの蜂蜜色の髪を揺らした。
「……明日は荒れそうですね」
マドラ・ルアは誰に言うともなく呟き、空を見上げた。
いつの間にか黒い雲が湧き上がり、青い空を覆い尽くすように流れていった。
不穏な空気は夜を呼び、血まみれの朝を揺り起こした——。
平原に朝日が差し込み、梅雨に濡れた草が黄金に輝く中、英雄たちは間近に迫った開戦の時を静かに待っていた。
英雄は真新しい装備に身を包み、〈魔王〉の城の方角をまっすぐ見つめていた。
装備の一新は戦場に立てないユリウスのせめてもの心遣いからくるものだった。
フードのついたケープをはおり、鉄で裏打ちされた革の胴鎧に革のベルトと剣帯を締め、両腕は肩から手の甲まで鉄の防具で覆い、両足は腿から膝までを鉄の防具が、膝から下は革のブーツがその身を守っている。
隊長の証であるサーコート——左右の見頃が別々の色に染められ、背中にはアルトス傭兵団の紋章が刻まれた——は、鎧の上ではなく下に着ており、そこから覗くダッギングの施された裾が腰から足下に向かって翻っている。
唯一変えなかった長剣——マークスからもらった——の柄頭に手を乗せ、地平線を見据える姿はさながら絵画に浮かぶ神話の英雄のようで、まわりに待機する兵士たちの羨望や尊敬の眼差しを一身に集めた。
「さすが。絵になるな」
私たちの団長は、と軽口を叩くガートルードの装備も新しい光に輝いている。
磨き抜かれた鉄の防具で全身を包み、その長身に似合う長めの片手半剣を提げている。
「戦う姿の方が数段良かろう」
渋面を作るニアールも同様に鉄の武具を愛用している。
ニアールの場合はドワーフであることと特に術への適性が低いため、戦闘時はほぼ全身を金属で覆って戦う。体力や筋力に秀でたドワーフ族は重厚な鎧の重さをものともしない。
反対に術との相性がいいウィスカやマドラ・ルアは布や革製の防具を使う。金属を嫌う精霊たちの力を妨げない為だ。
ミュリエルとドラウグも弓矢を扱う為、防具は革製で比較的軽装である。後方からの射撃を基本とする射手は。瞬時に移動できる素早さを重視するからである。
「ニアたちだって格好いいよ」
ミュリエルが笑って言い、その横でドラウグも頷いた。
「さすがは僕達の誇れる前衛だ」
「長年傭兵をやっているだけあって、やはりニアもガートも着こなしていますね」
ウィスカとマドラ・ルアも褒め称える。
「でもさ」
ウィスカがカラに目を向けた。
「カラも格好いいよね」
英雄の傍らにいるカラへ視線が集まる。
英雄とほぼ同じような装備だがサーコートは着ておらず、代わりにチュニックの裾を鎧の下から翻している。
細やかな装飾が施された剣帯から提げた剣は真新しく、丸い柄頭が朝日を反射して煌めいている。
前下がりの黒髪から覗く黒い瞳は遠く地平線を捉えている——。
「来たッ!」
英雄が短く吠えた。
皆が一斉に振り向くと、彼方に黒い影が地響きとともに現れた。
「全員配置につけ」
和やかな空気は消え失せ、緊張感が漂う。
「ヨハン殿」
『あぁ、視えている』
使い魔を通じて英雄とヨハンは状況を確認し合う。
『皆、いるぞ』
ヨハンの低い声が響く。
「全員お出まし、か」
ニアールが苦々しく呟いた。
「いいだろう。全員ぶっ殺してやる」
ガートルードが冷たい笑いを漏らす。
「い、いよいよだ」
ウィスカは震える己を叱咤した。
「……戦う」
ミュリエルは弓を握りしめる。
「私たちの神よ、どうか力を」
マドラ・ルアは信じる神に祈りを捧げた。
「誰ひとり死なせない」
ドラウグが仲間を見つめて呟く。
『くるぞ』
ヨハンは淡々と告げた。
「皆、武器を構えろ」
英雄の号令に皆が従う。
轟音と共に集結した魔物の群れが、英雄たちの前で立ち止まった。
獰猛な獣の唸り声、身を引き裂くような咆哮、立ち昇る土埃、血の匂い——。
清らかな朝日で満たされていた草原は一瞬で修羅の巷に姿を変える。
英雄は魔物の群れの奥、悠然と見据える〈魔王〉を見つけた。
銀色の美しい髪が風に揺れ、黄金を帯びたその眸が英雄を映す。
視線が交錯した瞬間、〈魔王〉は美しく顔を歪めた。
——進め——
「進めッ!」
英雄と〈魔王〉の声が交錯する——。
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