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普段ならおじさんの横に座るが、なんとなく近寄り難く少し離れたところに椅子を出して座った。
「……あ、美味しい」
お客様の表情がほんの少し和らぐ。内心ガッツポーズをしながら自分も飲んだ。爽やかでフルーティーだが酸味が少なくまろやかなコーヒーだ。またあそこのお店で購入しよう。
硬かった雰囲気が和らいだのを見計らってか、静観していたおじさんが口を開いた。
「改めて如月楓と申します。では、まずお名前を伺えますか?」
「江上彩人です。三十歳で、IT企業に勤めています」
「ITですか。最新ですね」
優しく相槌を打つおじさんに対して、口元を硬く結んだ江上さんは首を横に振った。
「別に……そんなことないです」
微妙な空気になったのを察してか、おじさんは会話の流れを変えた。
「それでご相談とは?」
「どこかに……忘れ物をしたんです」
江上さんはそうポツリと呟いた。
忘れ物? それなら警察案件では? 口に出したい気持ちを堪え、コーヒーを啜る。
おじさんは穏やかな口調で尋ねた。
「何を忘れてしまったのですか?」
「それが分からないんです。気付いたら僕はなぜこの会社で働いていて、何を目指して、なにがしたくて、なんで生きているのか何もわからないんです」
苦しそうに江上さんは吐き出した。彼の指先は震えていて、呼吸が荒れていた。
「すみません……」
江上さんはコーヒーカップを震える手で持った。
彼の表情になんだか胸が締め付けられる。
人生のどこかに置いてきた忘れ物……しかも目に見えない漠然としたもの。
おじさんは黙って相槌を打つと、おもむろに立ち上がった。そしてなぜか給湯室へ向かった。おじさんのずば抜けた頭脳でもう忘れ物への対処法が思いついたのだろうか。忘れ物がわかったのだろうか。
数分後おじさんは「これを寝る前にお使いください」と何か手のひらサイズのものを手渡した。
「知り合いに調合してもらったハーブです。お部屋で使ってください。そうですね、三日後またいらしてください。月曜日ですが、大丈夫ですか?」
ハーブ? 内心首を傾げると、江上さんもよくわかっていないのか困惑した表情を浮かべながら「夜なら……」と返した。
普段短時間で解決させるおじさんだが、今回の依頼は時間がかかるのかもしれない。そう思いながら空になったカップを裏に下げた。
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