六章 嫉妬

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「十日ほど神戸に行ってくる」 「戻ったら少しお話したいことがあります」  いつまでもうじうじ悩まず、腹を割って話そう。受け入れられないことは受け入れられないとはっきり言うしかない。ようやく向き合う勇気が出た。 「わかった。なるべく早く仕事を終わらせて帰るから」    夫を見送り、一人屋敷に取り残された気分になる。  結婚してから初めての長い不在に、寂しさが募る。  夜中にふと目を覚ますと、いつもはあるはずの温もりがない。  そして、しばらく帰ってこないのだということを思い出す。寝台の上の敷布がいつもよりひんやりと冷たい。  いつのまにかわずかな不在が堪えるほど、当たり前に傍にいるものとなっていたことに驚く。  翌日はよく晴れていた。  優秀な庭師が来てくれたおかげで、庭園も大分整ってきた。  春になるのが楽しみだ。  縁側に腰かけ、朝から庭を眺めていると、門の向こうでなにやら屋敷を伺う人影がある。小さくてまだ子供のようだった。 「あっ」  よく見ると、セツの小料理屋にいた少年だと気づく。  凛子の声に驚いた少年は、悪いことでもしたように気まずい顔をして踵を返した。慌てて下駄を履いて追いかける。 「待って! なにか用があるんでしょう」  追いかけて少年の腕を引っ張ると、こちらを向いた。  ──やはり遼介さんに似ている。  切れ長の目がそっくりだった。複雑な気持ちになる。 「遼介さんなら今いないの。私でよければ話を聞くわ。どうしたの?」  少年は、迷った末に小声で話しはじめた。 「母の具合が悪くて……他に相談する人がいなくて。ここに来てはいけないときつく言われているので帰ります」  その遠慮がちな表情に、性格は相楽に似ていないのだろうと思った。  こんな少年だけで病気の母親を看るのは、さぞかし心細いことだろう。 「──私が代わりに行くわ。今準備するから待っていて」  少しためらってから、凛子は自らそこへ出向くことに決めた。  運転手に車を用意させると、少年を無理やり乗せ、家まで一緒に行くことにした。  しばらくすると、例の小料理屋に到着した。 「入ってもいいかしら?」  少年が少し戸惑った様子で頷く。  一緒に家の中へ入ると、奥の部屋でセツが寝ていた。熱があるのか赤い顔で深く眠っていて、凛子に気づく様子はない。 「いつからこんなふうなの」 「三日前」 「そんなに……。お医者様は?」 「もったいないから呼ぶなって」 「駄目よ。きちんと診てもらわないと」  夫の妾かもしれないその人を目の当たりにして、複雑な気持ちがしたが、子供と病気の母親だけでは、相楽に頼りに来る気持ちもわかる。  とにかく、相楽がいない今、成り行きとはいえ凛子が対応するべきだ。 「一番近いお医者様はどこ?」  場所を聞いて、運転手に頼んで医者を連れてくるよう頼んだ。  昏々と眠るセツの吐息は乱れて、相当病状が悪いだろうことが凛子にもわかった。  少し迷ってから、そっとおでこに触れてみると、燃えるように熱い。  立ち上がって、鞄から手巾を出して、裏の井戸で濡らして絞り、部屋に戻っ てセツのおでこに乗せた。 「喜一? すまないね」  目を閉じたまま言う。喜一というのは少年の名前だろう。  凛子は答えず、ただ静かに正座して待った。  隣町から運転手が連れてきた医師が往診してくれた。 「これはひどい。放っておいたら危なかったよ」  薬を処方してもらい、また明日来てもらう約束を取り付け、その日は凛子は帰宅した。夫に電話しようか迷ったが、ひとまず命の危険はなさそうなので、帰宅してから話そうと思った。
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