「無名戦士の墓標」

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「無名戦士の墓標」

何かを書きたいのに、何も書けない現象をただ「スランプ」と形容するのは勿体無い、とスランプ状態の間に考えていた。 だめだ、まともなことはもう浮かばなくなってしまった。 これを誰かのせいにできたらどれほど楽だっただろう、と悲劇のヒロインのように考えてみる。 だめだ、誰の顔も思い浮かびやしない。 超えることができない、ただ二つの大きな壁。それは文字で、日本語で、そして「センス」で作られた大きな大きな壁。 「透明な音がした」「そうだ、海だ、目の前いっぱいに広がる海が僕は見たいんだ」 この二つを超えられる気がしない、一つは有名は作家の、そしてもう一人は友達の言葉。 最近この言葉たちが頭の中で絶えず繰り返されるのは、それを純粋に綺麗だと思っているからだけじゃなくて、自分自身の中の「センス」、はたまた文章を書く「能力」が衰えていることを、意識的にも無意識的にも実感しているからなのだろうか。 ああ、人はこんな状態をスランプだというのだろう。でもそれだと僕には明るい未来が待ち受けていることにならないか? そうだ、多くの才能溢れる人間存在たちには調子のでない時期があって、それを乗り越えるという体験をするではないか。幾多の伝記やwikipediaに書かれていたそうした「英雄伝」には、大いなる失敗と、そこから這い上がる「成功の物語」が必要不可欠なのだ。 だとしたらこれは僕にとっていい兆候なのではないか?スランプは、僕の能力が開花するという合図なのではないか? だがそんな興奮する僕の頭の中で、昔聞いた冷たい声が静かにつぶやく。 「違うよ、スランプを抜け出せなくて死んでいった無名戦士が、歴史に残らなかっただけだよ」 あの子の顔も仕草もあの時抱いていた感情も忘れてしまっているのに、声だけははっきりと覚えていて、無意識がその声を借りて残酷な真実を突きつけてくる。 いやでいやでたまらないはずのに、暖かな季節にふと冬の冷たい風を思い出して笑ってしまう時のように、僕はその声を忘れることができずにいた。 一昔前なら、音楽を聴いて培った「夜」のイメージにも、小説を読んで膨らませた「海」のイメージにも、そして映画を観て考えた「都会」のイメージにも、全部全部君が出てきていた。 でも最近はそのたくさんのイメージも霞んできたから、僕は君の声だけを頼りに言葉を紡いできたのだと思う。君に言われたひどい言葉も、正論も、そして本質をついた感想も、今の僕にはない。だから自由であるはずなのに、君との関係は終わったはずなのに、なぜか君との思い出が遠い昔の出来事になるたびに、僕は言葉それ自体を忘れてしまうような気がした。 変だ、どうしてスランプの話をしてるのに、僕は彼女の話をしているのだろう。別に彼女のせいにしたいわけでもないのに、考えれば考えるほど僕は彼女が僕の言葉、いや、文章の創造力に関与していたのではないかと疑ってしまう。 世間から多少なりとも評価されていたのは、大人になる前のあの頃で、そういえば君のことを書いて二回佳作に入ったっけ。違う賞に出した「SF小説」に君は出ていなかったけど、それでも君とのうやむやで曖昧な関係を続けていた時だった気がする。 だからなに?って君はいうかもしれない。あのイラついた時の喋り方は、ジェットコースターに乗って落下するときの内臓の感覚を思い出させる。そして君のいう通りなんだ。だからなんだっていうわけじゃない。ただ、そうやって君との思い出を無理やり「書く」という行為に結びつけているだけなんだ。 そうでもしないと、君を忘れてしまうような気がするから。 そうしないと、僕は2度と文章を書けなくなってしまうような気がするから。 そうしてハッと気づく。僕は小説が書けなくなったことを、まだ人のせいに、それもあの子のせいにしようとしているのではないか、と。確かに僕のなかの傑作は、全部彼女によって作られたと言っても過言ではない。でも、それはあの若かった、まだ情熱に燃えていた僕がいたからだったのではないか? いつから僕は世界の出来事に距離を置くようになったんだろう。あの頃の、どこまでもがむしゃらに、何も考えずに文章を紡いでいた僕はどこへいってしまったのだろう。パンク・ロックや美しい言葉を紡ぐ音楽に惹かれていた僕はどこへいってしまったのだろう。 そう考えると、僕は最近の体調の悪さと相まって、自分がもう若くないのではないかとさえ思わされる。いや、きっと若くないのだろう。昔の写真を最近見たら、そこには無邪気そうな少年の姿があった。今の僕はどうだろう。目には絶えずクマができていて、少し太ったはずなのになぜか顔色が悪い。もしかたら生活習慣病を罹っているのかもしれないけれど、たとえ数値上は健康だったとしても、僕の心は、いや、僕の魂は既に衰えてしまっているのかもしれない。 そして最悪なことに、僕は歳を取ったら「昔は良かった」なんて口癖のように言い続ける老人になってしまっているのではないかとさえ思われるのだ。 確かに昔は良かったと思う。数年前までは、ぼんやりとでも自分の未来を想像することができた。楽しい友人や仲間たちと青春を過ごし、数は多くないが複数の恋愛経験をする中で、僕は確かに大学卒業までの自分自身をイメージすることができた。 このまま大学生活を楽しんで、就職して、そうしてダラダラと君との関係を続ける。 それがどうだろう。大学を卒業し、まだ学問の世界に残ることを決意して、君との関係はもうとっくに終わっていて、それどころか僕らの関係は断絶しているではないか。 ああ、まただ、また僕は君のせいにしている。もしこの文章を君が読んだら「人のせいにしないでくれる?」っていうに違いない。そして僕は謝罪以外の言葉が見つからず、「ごめん」とだけいうに違いない。 結局僕には何もないのだ。何もないのに、でも文章だけはなぜかずっと書き続けているのだ。どうしてだろう。もう君はいなくて、もう歳を取って寿命を迎えるような気持ちでいるのに、どうして僕はまだ書いているのだろう。 ここに書きながら答えを見つけるつもりはないし、見つかるとも思っていない。 でも、僕はそれでも書くのだろう。たぶん、スランプでも、そうじゃなくても。 たとえ無名戦士として天寿を全うし、誰も僕の文章なんて読まなくても、僕は書き続けるしかないのだ。それは定めとか自分との約束とかそういう明確で形而上学的なものじゃなくて、もっと本能的な、もっと不純な、もっと身体的な理由なのかもしれない。 「僕が書いている」じゃない、僕自身が「書く」という動作、いや、動詞になること。 僕の理性も意識もエゴも全部無視して、僕という存在が「書く」という行為に成る。 なんのこっちゃ、って思うだろうか。またしょうもないこと言ってる、って言われるだろうか。 でも、それでも、だ。 たとえ君がいなくなって、たとえ心とか魂とかっていうふうに形容されるものがもう歳をとってしまってそこから進化することがなかったとしても、ぼくはナァナァと歌いながら書くのだ。 誰かに馬鹿にされても、自分に馬鹿にされても、手足がなくなり目が失明し、書くことなんてできなくなってしまったとしても。 僕は 僕は 僕は 生きている限りは書き続けるんだ。 君のことを思い出すことはずっと少なくなってきたけど 未来のことを思い描くことは難しくなってきたけど 僕は書くことをやめたくないんだ。 そうだ、書くんだ。目の前いっぱいに広がる美しい言葉を書きたいんだ。 そうして僕は思い出す。僕が初めて小説を書いたときのワクワクを。 「自分にもきっとできるに違いない」なんて思いながら、読む人のことなんて一切考えずに書いていた、あの子のことなんて忘れて書いていたあの時の躍動感を。 そしてあの時書き終えた時に感じた感動を。 今の僕にそれができるかはわからない。あの時のような情熱を今の僕が持つことができるかはわからない。 それでも、僕よ。 たとえ認知症になってしまっても、どうか忘れないでくれ。 胸の中が熱い気持ちで満たされていくあの感動を。 言葉を紡ぐことの楽しさを。 綺麗な文章を書くのはやめよう。君のことを思い出して書くのはやめよう。賞や人様の感想を気にしながら書くのはやめよう。 やめよう、やめよう、全部やめてしまおう。 そうしてやめてもなお「書く」ということがパンドラの箱の「希望」のように残っていたら、僕はまた書き続けよう。 言い訳も理由も理屈も抜きにして、書こうじゃないか。 「僕」を捨てて、「書く」という行為になろうじゃないか。 だから君よ、さらばだ。 だから僕よ、さらばだ。 だから「無名戦士」よ、さらばだ。 僕はこの文章を通して証明したのだ、僕は「書くこと」をやめることができない、と。 「無名戦士」として、自らの功績をここに刻み込む。 未来ある少年少女らに幸あれ。 そして、 さらばだ、少年少女よ。 「無名戦士の墓標」より、愛を込めて。
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