愛しき言尽くしてよ

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 月がふってくる。ひたりと首の後ろに貼りつくつめたさに、わたしは大きく身を震わせた。  つめたいなんておかしい、わたしはひとりきりなのに。それに今は夏真っ盛りだ。お盆は終わったからもう残暑、この先どんどん涼しくなるとわかっていても暑いことには変わりない。  わたしの首筋には汗がひたひたと伝っている。振り切るように身震いした。静かな夜の屋外で、まわりには誰もいない。車通りすらまばらな夜道にわたしはひとり立っている。ひとりなのに、近くには誰もなにもいないのに、しきりに首筋に貼りつくこれはなんだろう。なにがわたしを、これほどにのだろう。  さらさらちりちり、耳に心地いい音はしめやかに響く。たくさんのガラスの風鈴が触れ合って奏でる音色だ。  数え切れないほどの風鈴は示し合わせたかのようにひとつの音楽を奏でている。どこかで聞いたことのある調べだと思った。この小曲の連なりをわたしは知っている——なぜ?  風鈴たちはわかっていてしきりにうたっているのだろうか。聞く人間たちの心には、この音調に誘い出されるがあるのを知っているのではないだろうか。  そんな、ばかな。わたしは嗤笑の思いとともに顔をあげた。  わたしは小さな鳥居の前に立っている。さらさらちりちり奏でる音楽はいっそ悠揚にわたしの耳を惹き寄せた。  惹き寄せられて立ち止まる、見つめる。とりどりの色彩のガラスの風鈴は外見(そとみ)にぶつかって音を立てる(ぜつ)からは小さな短冊がゆらゆら揺れている。  書かれている小さな字は暗い中では見えないしわたしの視力は今の裸眼状態では一・〇を切っている。なによりも他人の願いごとに土足で踏み入るようなことは趣味じゃないから、ただ流れる音律を堪能するのみだ。  この神社の東にある大鳥居は今は工事中で、参拝者の出入りは南の小さな鳥居から。鳥居に結いつけられた注連縄(しめなわ)の向こう、見あげる高さにまでしつらえられた木枠に、人々の願いを孕んで果実のように鈴なりの風鈴が揺れている。  揺れる風鈴が連なって奏でる抑揚が響く、その調子に乗って、なにかがわたしの首筋にぴたりと貼りつく、この暑い中でわたしの体をつめたく、ここにあってここにないような、中途半端に浮いた存在であるような感覚に誘い込む。  わたしはふるふると身を震わせた。  さらさらちりちり風鈴が揺れる。この近隣に住んでいて、この神社の縁むすび風鈴のことを知らないわけがない。  それでもわたしは去年この市に引っ越してきたばかりで、だから今年で市制施行百周年だという伝統ある地域にあってただの新参者でしかない。この地域にどういう伝統があろうとわたしには関係ない。  だから風鈴の音色も、わたしには関わりのないことなんだ。 「あ……」  誰もいなかった夜道に足音が聞こえてくる。ひとつふたつ、みっつよっつ。みんな足早、帰途についている人たちだろう。わたしも歩き出した。首筋にはなにかがひやりと貼りついたままだ。自分でそこに触れた。手が冷たくて気持ちいいと思ったけれど、物足りない、これじゃない。わたしをつなぎとめるのは、これでは、ない。 ——職場の同僚で春に結婚したばかりの有香(ゆか)が言っていた。まるで中の人みたいに饒舌だった。  この神社には縁結びのかみさまがたがおいでになるのだ。夫婦のかみさまが二組、その子どもであるひと柱。夫婦円満家庭円満、その霊験はあらたかだと。参拝した人たちの恋人ができた、結婚したとの報告は多いとか。  有香も、パートナーと結ばれたのはここのかみさまのおかげだって言ってる——ほんとうにかみさま関係ある? たまたまじゃないの? 「かみさまのおかげ」って言ってる人にわたしはいつもそう思っていた。もちろん心の中だけで。喜ぶ人の気持ちに水を差すほど野暮じゃない、けれど胸の奥ではいつでも思っている。 「かみさまのおかげなんて気のせいじゃないの?」  わたしの耳にはさらさらちりちり、風鈴の音色が響いている。わたしはまた、ここにいる。  なぜ——もちろん『縁むすび』というのは恋人との縁だけじゃない。仕事や友人関係の縁も含まれる、だからわたしがここにいるからといって即「この人恋人がほしいんだ!」とは思われない、はずだ。だから大丈夫。  誰にもなにも言われていないのに、頭の中で必死にそんなことを考えながら、わたしは顔をあげた。さらさらちりちり耳を潤す音色の抑揚に耳を傾けている。  わたしはどうしてここにいるんだろう。どうしてもなにも、わたしはこの、ひたひた首筋に貼りついているつめたいなにかの正体が知りたいだけだ。  今日はまわりには誰もいない、社務所も閉まっている深い時間。部外者が立ち入ることができるのは鳥居の前までで、ここではかみさまの力も届かないだろう。それなのにわたしはなぜここに立っているのだろう——。 「あ、っ」  思わず声が出た。なにかが頭の中で弾けたように感じたのだ。これはなんだろ——きりっと貫く感覚は、痛くはない、痛くはないけれどとても気になる。じっとしていられない、落ち着いていられない。  わたしはしきりにきょろきょろした。また頭の中でなにかがぱんと炸裂する。わたしの注意を呼び起こしているかのような——。 「な、に、これ……?」  どこだっただろうか、ここではない神社でのことを思い出した。神社のまわりにモスキート音を流しているというのだ、わたしはなにも感じなかったのだけれど同行の友人が悲鳴をあげていた。  モスキート音は神社にたむろする若い子たちを追い払うため、大人には聞こえないのだと社務所の方が言っていたけれど、友だちはわたしと同じ、今年で二十六歳になる。  大人だから聞こえないわたしと大人なのに聞こえる友だち、どっちがおかしいんだろう。  わたしの首筋にはつめたいものが貼りついている、ひどくひやりとするのに同時に幾粒も汗が伝う、青い月がわたしを包んでいる。  汗があふれるのは暑いからだけじゃない、なにかが聞こえるからだ。モスキート音ではない、風鈴の音色でもない。わたしとってひどく懐かしい、ひどく心揺さぶられる音が耳に届く。  やがてその音だけが、わたしのすべてになる。  とくとくと胸に刻まれている音は、足音だ。少し足をひきずるようなのは学生のころやっていた短距離走で怪我をした後遺症。普通に生活するには支障ないけれど陸上は引退を余儀なくされた。プロ選手を目指していたわけではないし就職活動に切り替える好機だったと笑っていた、その目は笑っていなかった。  足音はあたりの闇に吸い込まれるように消えた、同時にあふれ出たわたしの声は、震えていた。 「どう、して、ここ……に?」  街灯の逆光になっていてその顔はよく見えない、それでもわたしがを間違えるわけはない。  ごくりと息を呑んだ。まばたきをした。  顔が少しずつ見えるようになる、わたしの好きな涼やかな目もとに視線を奪われた。通った鼻筋に薄い唇。その唇は彼を酷薄に見せるけれど実際はそうではない、彼が冷徹なんかじゃないってことはわたしがよく知っている。  わたしは口をゆっくりと開いた、自分の唇が震えているのに気がついた。声を出すのは慎重にしないと声が震えてしまいそうだ。 「孝央(たかお)……どう、して?」 「こんな時間にこんなところ。危ないよ」  その声は低くてややハスキー、わたしの耳を心地よくくすぐる音色だ。ここがどこで、わたしはなぜここにいるのか。そんなすべてが吹っ飛んでしまう。目の前の姿のことだけで頭がいっぱいになる。ああ、だから。 「ねぇ、どうして、ここに……いるの?」  偶然? 違う、孝央の住んでいるところはここからは離れている、わざわざ来るにはあまりにも遠い。  だからこそわたしは油断していた。孝央が現れると知っていたら迂闊にうろついたりしなかった、縁むすびの神社になんて足を向けることなんてなかったのに。 (どうして? だって……いつも来てるわけじゃない、今日はたまたま足を向けただけ……どうして? なにかに誘われたみたいな……)  大きくどきりと胸が鳴った。反射的にわたしは自分の首筋に手を貼りつける。ひたひたつめたい感覚が背筋にまで流れ込んだ、それでいてそのつめたさは不快ではなくて、それがなによりも怖いのだ。  目の前の孝央は少しだけ首を傾げている。わたしになにか尋ねたいことがあるときの孝央の癖だ。懐かしい、胸の奥がきゅっと締めつけられる。同時に(逃げられない)と感じた。わたしの退路は断たれた。孝央を前に「逃げたい」と思うわたしは、それは。  またひたり、なにかが首筋に貼りつく感覚ががあった。 「ええと、有香さんが」  孝央の口調は戸惑うかのようだ。有香はわたしが孝央と付き合っていたことを知っている。別れたことも。 「綾佳(あやか)が悩んでるみたいだから行ってあげてって、有香さんから連絡があった」 「別に、悩んで、なんか」  口ではそう言いながらもわたしはここに立っているままだ。根が生えたみたいだ。そんなわたしの心の中を知っているのか否か——きっと知ってるんだろう、孝央なら。  どうしてわたしは、この人を遠ざけてしまったのだろう。さらさらちりちり風鈴の音が耳にすべり込んでくる。  なんのつもりなんだろう、わたしをどうしたいのだろう、この音は——なんのつもりもなにもない。  音はただの音だし、月はただの月で、そして目の前にある現実はわたしのもの——わたしの心はひどく乱れている。いきなり現れた、予想もしていなかった目の前の孝央に、動揺しているのだ。  風鈴の音色には、青い月の明かりには、なにかを引き寄せる力があるのかもしれないと思った。 「あ、っ」  それでもわたしは一歩、後ずさりをした。地面を蹴って駆け出す。  わたしの足に生えていた根はあっさりと抜けた。わたしは駆け出す、けれど孝央の追ってくる速度の方が早かった。さすが元陸上選手。  それでもわたしは精いっぱい走った。いくら足を痛めたとはいえ短距離選手だった孝央に勝てるわけがないのだけれど。 「ちょっと待って、ねぇ!」  追いかけてくる孝央の優しい声。わたしの足はゆるゆると止まった。ぜぇぜぇと息が切れる、運動不足だ。後悔しながらもわたしは振り返れない。  再び走り出すこともできないのは気息奄々(きそくえんえん)、あまりにも苦しくて、それ以外の理由はない、のだ。 「ごめん、だめなんだ。ご、めんね、だめなんだ」 「理由を教えてほしいんだよ」 「……ち、がう……」  どうにか出せた声は小さくて、孝央に聞こえただろうか。聞こえていてほしくない——それでもわたしは孝央の前から去ることができない、振り返ることもできない。  あたりには誰もいない、昼間は観光客で賑わうレトロ感が売りの通りも今は無人、わたしたちだけ。あたりはしんと、それでも人家はあるわけだから大きな声は出せない。人におかしい、変だと思われるようなことはしないように気をつけないと——。 「じゃあどうしてここに? あそこは……縁むすびの神社だよね?」 「ち、がう、から!」  反射的にわたしは叫んでいた、人に聞かれる、慌ててわたしは口を押さえた。孝央がびくりと肩を揺らしている。  気づけばわたしは、孝央を振り返っていた。角のないアーモンドの形をした孝央の目が捨てられた猫のようになっている。こんな顔をさせたいわけじゃないのに、わたしはどうして——わたしはどこまでも『困った子』『変な子』『おかしな子』なんだ、人に嫌悪感を感じさせる存在なんだ。  だから、おとうさんもおかあさんも、だから。 「あ、ごめん……孝央。脅かすつもりはないの。ごめん、ごめんね」 「ええと、うん。綾佳、それはいいんだ。それは」  孝央は困ったように声を震わせている。困らせたいわけじゃないのに、そんな顔を見たくはないのに。それなのにわたしは——わたし、は。わたしは、だから、こんなことになるんだ。 「あっ、綾佳!」  またわたしは地面を蹴っていた。息が少し落ち着いたから、それでも孝央を撒くことができるほどに回復したわけじゃない。わたしは街頭の少ないところを走った。  孝央が好きだ。真面目だし誠実で、少し融通が利かないところはあるけれど、そこが好きだ。約束を違えることがない。なによりも言葉の持つ意味を知っている。  人は、わたしは、無神経な言葉で、ほんの少しの裏切りで、ひどく傷つく。心の傷は目に見えないから自分自身でも傷ついていることになかなか気づかない、知らないうちに傷は少しずつ深くなる。かすり傷でも積み重なれば致命傷になる、心は死ぬ。そのことをわたしは知らなかったけれど、孝央は知っていたのだ。  わたしに、わたしが傷ついていると自覚させてくれたのは、孝央だ。迷惑をかけてしまった、孝央にしなくていい面倒な仕事をさせてしまった。負担をかけてしまった。だからもう孝央と一緒にはいられない、人に迷惑をかける。  こんなわたしはまともに人付き合いなんかできないんだ、いつか孝央を傷つけて苦しめる。ううん、もうそういう目に遭わせているから——。  駆ける脚を止めて、はぁはぁ荒い息を吐いた。胸に手を置く、そこをぎゅっと握りしめる。  わたしは、まだ、致命傷を受けてはいない。わたしは、まだ、ちゃんと生きている。まだ間に合う——こんなわたしの(せい)に誰かを巻き込んではいけないのだ。  それは孝央のことでもあるし、結婚したら生まれるかもしれない子どもでもある——わたしが子どもを持つなんて、親になるなんて!  想像したくもないくらいにおぞましいことだ。だからわたしはプロポーズを受けることなんかできない。わたしは結婚なんかできない、しちゃいけない、わたしは子供なんて持てない、持っちゃいけない。 『困った子』『変な子』『おかしな子』であるわたしが子どもなんか生んじゃいけない。かみさまともなればそのくらいのことはわかってるんじゃないの?  わたしが背後に置き去りにした、妙なる風鈴の音色、縁むすびをしてくれるかみさま。  どうしてあそこで孝央と会わせたの? わたしみたいに困った、変な、おかしな子どもをまたこの世に生み出すなんて、そんなことかみさまが望んでいるとは思えない。  わたしは、おとうさんみたいに、おかあさんみたいに、子どもを嘲笑う親になりたくないんだ。  記憶にある限りほんの小さいころから「おまえはブサイクだから、頑張って勉強して頭の中身で勝負できるようになりなさい」って言われてた。  おばあちゃん―——おとうさんのお母さんが、生まれたばかりのわたしを見て「まぁブサイクな子!」と言ったらしい、おかあさんが何度も何度も聞かせてくれた。  それからわたしは今までずっと、ブサイクな子だ。鏡を見てもその言葉を否定できるだけの材料は特にないので、それが事実なのだ。  読みたい本は買ってもらえたし塾や予備校にも、大学までも行かせてもらえた。だからわたしは両親にものすごく感謝している。すべての家事や家にいる病人の世話を任されて勉強の時間がない子だっていたし、鉛筆や消しゴムをなくしたらお母さんに怒られるって紛失物にやたらに神経質な子もいた。  わたしはそんなことはなかった、全然恵まれてる。文句を言ったらいけないんだ。 「は、あ……は、ぁ」  わたしはお寺の門の前にいた。閉まっている門の前でわたしはしゃがみこむ。  首筋から汗をしたたらせながらはぁはぁと何度も息をついた。頭には今まで気にしていなかったこと(だって事実だから。気にしたって仕方がない)。  子どものころから繰り返し聞かされてきた、おとうさんとおかあさんの言葉が渦巻いている。 『おまえはブサイクだからね』 『そんなにトロくさいのはいったい誰に似たのかなぁ』 『あんたの話はほんとうにつまらない、そんなつまらないことばっかりよく言えるねぇ、感心するわ』 『こんなものが好きなんておかしいんじゃないの?』 『ピンクなんかが好きなの? 気持ち悪い……』 『頼まれてもないのに勝手に生んでごめんね、おまえみたいな子どもを』 ——云々、云々。  似たようなことをしょっしゅう言われてきた。子どものころだけじゃなくて、なんなら最近会ったときにも言われた。  わたしはここにあるべき子どもじゃないんだって改めて確信した。  だっておかあさんは何度も何度もそう言ってきた、わたしは母親に生んでごめんと謝られてしまうほどの出来損ないなんだ。だからおとうとはちゃんとした部屋をもらって、わたしは半分物置みたいな部屋で、理由を聞いても答えてもらえなかったけれど、それはわたしが生んだことを謝られてしまうほどの欠陥品だから。  でも部屋があるだけ恵まれている。世間には自分の部屋なんかなくて勉強するためには図書館に行かなくてはいけない子もいるし、勉強する暇も、それどころかお腹いっぱい食べられない子もいるから。それに比べたらわたしは全然恵まれている、感謝しなくてはいけない——。 「ひっ」  わたしは思わず声をあげた。暗がりから人が近づいてくる。反射的に身を小さくした、けれどすぐにわかった。  歩き方もそうだけれど、わたしが孝央のシルエットを間違えるわけがないのだ。 「そっち、行っていい?」 「行く? どこに?」 「綾佳が今いるとこ」 「なんで……わたしがここにいるって……わかった、の?」 「知ってるよ、わかってる。綾佳の行動パターンはお見通しだし」 「神社にいたのはなんで知ってたの? 有香に聞いたくせに」 「あはは、そうだった。超能力とかじゃないよ、綾佳のいるところはわかる」 「……愛の力とか言わないでね?」 「そんなイマジナリーなものじゃないよ」 「神社には、来たのに?」 「そうだね……そう言われれば、そうかな」  孝央はくすくす笑う。いつもの孝央の笑い声だ。わたしの胸の奥はほわりと溶けた。  思わず笑って、すると孝央はずかずかとやってきた。わたしの隣に座る。さっきはあんなに慎重だったのに。こういうところだ、孝央は。  わたしは立ちあがらなかった。 「俺が悪いわけでもない、綾佳が悪いわけでもない。ただ綾佳は俺のこと、見くびってると思うんだ」 「え……?」  どういうこと? 孝央を見くびってなんかいない。わたしは誰かを傷つけたくないだけだ。負の連鎖を断ち切りたいだけなのだ。 「俺が、綾佳を持て余すとか。そう思ってるでしょ」 「そんな、ことは……」  わたしは胸の奥でつぶやいた。孝央はそんなわたしの心を覗き込むような表情をした。言えるわけがない、わたしのなんて。  わたしはわたしみたいな『困った子』『変な子』『おかしな子』を生み出したくない。誰かにしんどい思いをさせるなんていやなんだ。  でもわたしは、おとうさんとおかあさんの子ども、血を引いている。顔だって似てるしだったら性格も似ているんだろう、だから同じような親になってしまうかもしれない、ううんきっとなる。  おとうさんとおかあさんに対して抱えている気持ちはたくさんあって、「悪口は自己紹介」って言うから、だから、やっぱりわたしもふたりに似てるんだ、だってわたしはおばあちゃんに似て『ブサイク』で、遺伝って侮れない、遺伝子って強いんだ。  そんなわたしが結婚するなんて、子どもを持つなんて——親に、なるなんて!  できない、そんなことできない。そんな恐ろしいこと、そんな残酷なこと。  体の奥からぞくりとした、夏なのにひどく寒い、お腹の底からきりりと冷たくなる、わたしはぶるぶる何度も震えた。そんなわたしを孝央がじっと見ている。 「おとうさんみたいになりたくない、おかあさんみたいに……わたし、は……」 「ああ……ちらっと話には聞いてたけど。綾佳のおとうさんとおかあさん、毒親だったんだね」 「やめて! そんな言い方しないで!」  自分でも驚くくらいに大きな声が出た。孝央がびくりと大きく震えた。  まわりの家の人たちにも聞こえたかもしれない。迷惑をかけてしまった、そう思ったけれどわたしは止まらなかった。孝央の目がじっとわたしを見ていてくれるからかもしれない。 「毒なんかじゃない、わたしは、毒から生まれた子どもなんかじゃない!」 「うん、そうだね、その通りだね。ごめんねあんな言い方して」 「違うの、孝央が悪いんじゃない。孝央も、おとうさんも、おかあさんも……誰も悪くないの。誰も、悪くないの」 「うんうん、そうだ。そうだね」  わたしを宥めるように孝央は背中を撫でてくれる。この手の優しさがわたしを惹きつけていたのに、わたしはここから逃げたのだ。 「わたしは……毒から生まれたんじゃないし。わたしは、毒には、なりたくない」 「そうだね、そうだね」 「でも怖くて、わたしも、毒親になるんじゃないかって。だってわたしは、おとうさんとかあさんの子どもで……遺伝子が」  自分で「毒親」と言ってしまっていることに唖然とした。同時にわたしの胸には、そんな言葉たちを聞いたときの気持ちがじわりと蘇ってきた。  胸の奥にこびりついている澱んだ重みがふっと軽くなったような、同時にそんな自分にひどい嫌悪を感じたときの気持ちだ。  同時に新たな重みがごろりと音を立てて、お腹の奥に重石(おもし)のように転がった。その重さを改めて感じながら、わたしは呻いた。 「わたし、救われたんだよ……毒親とか親ガチャとか、そういう言葉があるってことは必要としている人がたくさんいるってことでしょう。こんなふうにもやもやしてるの、世界でわたしひとりじゃないんだって……でも、そんな言葉……失礼じゃない? わたし、そんな言葉に救われた自分が許せないんだ。だってうちの実家はお金持ちじゃないけど衣食住に不自由したことなんかなかった、成績が伸びないときに家庭教師をつけてもらったこともあるし博物館とか美術館とか、旅行だってあちこち連れて行ってもらえた。世の中にはいっぱいいるじゃない、殴られたり食事くれなかったりお風呂に入らせてもらえなかったり、そういう子どもたち? それを思ったらわたしなんか全然恵まれてる……わたしのおとうさんとおかあさんは、子どもを殴ったり飢えさせたり、そんな親じゃない。ちゃんと子育てしてくれた。そんな両親を嫌いなんて……恩知らずすぎる……」 「人はパンのみにて()くるものにあらず、だけど?」  わたしが一気に言ったことに、すんっとした口調で孝央は答えた。あまりにも淡々とした調子に、わたしは目を見開いて孝央を見た。 「孝央、クリスチャンだったっけ?」 「違うけど」  孝央は笑って、その笑顔にわたしの心は少しばかり癒やされた。そんなわたしを見て孝央が「おっ」というように笑ったのでわたしも笑えたんだと思う。  反射的に顔をあげて、お寺の門を見た。仏教でもそういう言葉とかあるんだろうか。 「かわいそうに、綾佳」  子守歌みたいにそう言いながら、孝央はわたしの頭を撫でてくれる。大きくて温かい、優しい手。  ふいに思い出したことがある。幼稚園のころおかあさんの髪に触ろうとした。おかあさんの髪は真っ黒でつやつやでふわふわで、とてもきれいだったから。 『汚い手で触るな!』  そう怒鳴りつけられたことを今でもはっきりと覚えている。幼稚園児の手は確かに汚い。なんでも触るし大人のような衛生感覚もないから。「だから怒鳴られても仕方がない」ってずっと思っていた——けれ、ど。  あのときのおかあさんの怒鳴り声は、二十年も経った今でも忘れられない。 (ああ、わたし……傷ついてたんだ)  幼稚園児の手は、そりゃ汚いから。おかあさんの気持ちはわかるから、だから傷つくわたしがおかしいんだと思い込んでいた。  だってわたしは『変な子』だから。だから普通は傷つかないようなことで傷つくんだ、『困った子』で『変な子』で『おかしな子』だから。  ああ——そういえばわたし、女の人の高い声が苦手だ。女性歌手の高い歌声とかものすごく苦手。  でもおかあさんはわたしのことを思って叱ってたんだよ、わたしはいい子じゃなかったし、今でもいい子じゃない。おかあさんは、おとうさんは……。 「う、くっ」  孝央の手がわたしの髪を撫でる。芯から冷えていたわたしの体が少しずつ溶けていく。手のひらから沁み込んでくる感覚がわたしの全身に広がる。指先まであたたかくなる。  どうしてわたしは、このぬくもりを手放せると思ったのだろう。どうしてこの手から離れられると思ったのだろう?  震える声で、わたしはささやいた。 「わたし、孝央を……親みたいに思ってるのかもよ? しかもお父さんだけじゃなくてお母さん的立ち位置も込みで」 「あはは、それでもいいよ。両方ともできるのってわりとすごくない?」 「すごいすごい、孝央ならできると思う」 「任せて」  そう言った孝央はにっこりと微笑む。笑うと目尻に少し皺ができる、するとひどくかわいらしく見える。わたしはいつも、この笑顔に癒やされてきた。  だからこそわたしはプロポーズを受けられなかった。断るだけどころか「もう会わない」とひどいことを言って背中を向けたのだ。  それなのになぜ孝央は、こんなに優しいんだろう。孝央の優しさがわたしには怖くもあった。ブサイクで変で、困ったことばかりするおかしな、つまらない子を生んでしまったと「生んでごめんね」と親に罪悪感を(いだ)かせるようなわたしに、そんな価値はないのだから。  それでも訊いてみたかった。少しずつ息を吐きながら、ささやいた。 「こんな、わたし、めんどくさいのに……どうして、あの」 「ん?」  どうしてわたしなんか好きって言うの? こんなこと言ったら鬱陶しいと思われる、面倒な人間だと思われる、否定されて嘲笑われるのはいやだ、もういやだ——。  それでもわたしの口は動いていた。孝央を見るわたしはどんな顔をしていたのだろうか。 「どうして、わたしを……すき、なの?」 「そういう顔するとこ」  孝央は即答した。そして笑う。わたしの好きな笑い方だ。  つられてわたしも笑った。少しだけ泣いていたかもしれない。孝央はそこには突っ込まなかった。 「綾佳は逃げないからね、辛いことは辛い、辛いって泣きながらも逃げない。泣きながらでも立ち向かっていく子なんだなぁって、だから好きかな」  改めて言うと照れるね。孝央は照れくさそうに笑った。わたしは目を見開いて孝央を見ている。  にわかに孝央は真面目な顔をした。ほかの感情がすっと抜けて、わたしはどきりと不安になった。 「覚えてないかもだけど。大学の部活のさ、真壁(まかべ)って子覚えてる? あの子が試合でうっかりやっちゃって、失格になったとき。綾佳の方が悔しがって泣いてただろう。覚えてる?」 「ええ……そんな、こと。あった……? よく覚えてるね」  顔が熱い。そんな恥ずかしいことを蒸し返さないでほしい。  わたしは子どものころからそうだ。関係ないはずのことを自分のことみたいに感じて傷ついたり泣いたりしてしまう。  おとうさんとおかあさんには「おかしい」「変」「困る」「恥ずかしい」と言われることだ。孝央はそんなこと思ってもいないみたいで、それがどうしようもなく恥ずかしかった。 「そりゃ覚えてるよ。俺が恋に落ちた瞬間だから」 「はっっっずかしっっ!!」 「だ・か・ら、恥ずかしいこと言わせんなよ」  にやりとしつつ、芝居がかった口調で孝央は言った。わたしの髪に触れる。撫でながら、幼稚園の先生みたいに優しい声でつぶやいた。 「今までよく我慢してくれた……ありがとう。よく頑張ったね、綾佳はとても偉い」  孝央はわたしの髪を撫でてくれる。目の前の孝央の顔が少しずつ霞んでいく滲んでいく、潤んでいく——なにも見えなくなる。 「いや、だ……よ、だ……って」  泣きたくなんかない、恥ずかしかった、それなのに涙が出てしまう。我慢しても、否、我慢すればするほど涙が出るのだ。  泣いてしまうと「泣いてる自分がかわいいとでも思ってるの?」「泣けば物事が解決するとか思ってるんだ」「泣いて通用するのはかわいい子だけ」、言われてきた、だから泣けなかった。  でも今は、泣いても、いいんじゃ、ないかな?  わたしはどのくらい泣きじゃくっていたんだろう。嗚咽が治まっても孝央はわたしを抱きしめて髪を撫でていた。祖母譲りの天然パーマで「あちこち跳ねて扱いにくい髪」とため息をつかれていたわたしの髪を。 「ねぇ、綾佳」  うたうような口調で孝央が言った。孝央の優しい声が夜の沈黙(しじま)に絡まった。 「あの神社の縁むすび風鈴、九月までやってるんだって。行こうよ、夜の九時まで見られるって」 「よく知ってるね」 「調べたから」  手にした自分のスマホをひらひらさせる孝央を見て、わたしは笑った。わたしが笑ったら、孝央も笑った。  孝央はそっとわたしの首の後ろに触れてくる。これは孝央の癖だったと思い出す。  孝央の手はひやりとした冷たかった。すうっと心の中に沁みていった。  赤、青、黄色、水色、ピンク、白、薄黄色、薄緑、透明。あらゆる色の風鈴が揺れている。  明るい陽の下で揺らめくさまは夜にはない目を奪う光景だ。  さらさらちりちり、風鈴の音色。音はただの音だし、風鈴は風鈴でしかない、はず。でも今のわたしの耳にはまったく違う音に聞こえる。  きっと、わたしの心の問題。かみさまのお力ってこういうものなのかな、とわたしは首を傾げた。  この神社には『人丸さん』がおられる。万葉集にもたくさんの歌が載っている歌人・柿本人麻呂がまつられている神社があるのだ。  そのゆかりで境内にある『万葉みくじ』を引いてみると小さなカードが入っていた。歌が書いてある。 『恋ひ恋ひて 逢へるときだに (うつく)しき 言尽(ことつ)くしてよ 長くと思はば』  調べてみると「恋しくて恋しくて、ようやく会ったときだけでもせめて、優しい言葉をありったけ言い尽くして聞かせてほしい。ふたりの恋が長く続くようにと思うのならば」というような意味らしい。  歌人・坂上大郎女(さかのうえのおおいらつめ)の恋の歌だけれど、「愛しき言尽くしてよ」との部分は違う意味でも胸に沁みた。  カードを孝央に見せると「現代っぽい歌だね」と興味を示していた。  毒の込められた言葉ではなく、優しい言葉を尽くして、聞かせて。 《終》
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!