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娘の了承を得た松岡が目で合図すると、成瀬が母親を呼ぶ。そして、険しい表情で入って来た彼女を娘の横に座らせると、松岡が真摯な面持ちで話しかけた。
「娘さんですが、ご懐妊されているようです」
「そんな、まさか……」と絶句する母親に、松岡は噛んで含めるように言葉を続ける。
「まだ確定したわけではありませんので、産婦人科を受診するよう お話ししています。もし、どの病院に行けばいいのか分からなければ僕が紹介して……」
しかし、母親の耳には松岡の話が届いておらず、娘に詰め寄ると声を荒げた。
「妊娠って…… あなたをそんな ふしだらな娘に育てた覚えはない!」
そして、唇を噛んで俯く我が子に更に言い放つ。
「あんた、東京へ何しに行ったの! 勉強しに行ってたんじゃなかったの? 親の反対を押し切って上京したのは何のため? 男と遊ぶためじゃないでしょう!」
そして、「お父さんに知れたらどうするの。そうだ、あの人には黙っておこう。黙って中絶しましょう。そして、何もなかったことにするのよ」と興奮ぎみに まくしたてたので、松岡が抑揚を押さえた、しかし怒気を孕んだ口調で割って入った。
「お母さん、落ち着いて下さい。結婚されていない娘さんの妊娠に驚くのは分かりますが、あんまりな言い方だ」
「先生は他人だからそんなことが言えるんです! もし、妊娠が世間に知れたら恥ずかしくて表も歩けやしない」
「妊娠という祝うべき出来事に何を不謹慎なことを言うんです! あなたの孫ができたんですよ!」と、一蹴された母親は我に返って唇を戦慄かせる。すると、松岡が諭すように語り始めた。
「確かに順序は違うかもしれないが、喜ぶべきことに変わりはありません。これからどうするのか娘さんと子どもの父親、そして双方のご両親で話し合って下さい。ただ、一言言わせてもらうと……」
そこまで言うと、松岡は一呼吸置いた。
「…… 私の知り合いに結婚してずっと子どもに恵まれない夫婦がいました。双方に問題はなく、諦めかけた頃にようやく子宝に恵まれましたが、結局その子一人しか授からなかったそうです。だから、あなた方も後悔なさらぬように。『あの時、あんなことをしなければ今頃……』と、悔やむことのないようにしてください」
松岡から諭された二人は神妙な面持ちで診療所を後にした。出入り口を出る時、娘の背中を母親の手が労わるように添えられるのを見た成瀬は良い方向へ向かうのではないかと期待した。
母娘を見送った成瀬は、診察室でカルテを記入している松岡の横顔を見つめながら先ほどのやり取りを思い出していた。
娘の望みを後押しし、妊娠中絶を勧める母親を戒めた態度に心を打たれたが、あの時松岡が話した【知り合いの夫婦】というのは、恐らく彼と元妻のことだろう。ということは、彼らは不妊に悩み、第二子の誕生も願っていたわけで、夫婦の知られざる葛藤を知った成瀬は感慨に耽った。
――― 家と家の繋がりを目的とした意にそぐわない結婚だったのに、彼らは家族というものを懸命に築こうとしたんだ
なのに、夫は浮気を繰り返し、妻は別れたあとも元夫を気遣う。夫婦の絆というのは理解しがたいものだ…… と、成瀬が苦笑していたら、視線に気づいた松岡が顔を上げたので慌てて目を逸らす。
「帰る間際にヘビーな患者が来ちゃったね。僕はこれを書いたら帰るから、成瀬君はもう上がって」
「先生?」
「なあに?」
「娘さんが妊娠していること、よくわかりましたね」
「『女性を診たら妊娠を疑え』っていう格言があるからさ。それに、症状が妊娠初期の兆候に似ていたから『もしや?』と思って。だから、最初にあの子だけ呼んだんだ。母親の前じゃ聞きにくい、話しにくいこともあるからね」
「さすがですね」
「今頃気づいた?」と、おどけたふりをみせた松岡はカルテを書き終え、ボールペンを白衣の胸ポケットに差し込みながら言った。
「あの子の『産みたい』という願いが叶うといいよね。まあ、本人達の苦労や周りのサポートが不可欠だろうけど、せっかく授かった命なんだから」
「そうですね」
「なんだか疲れたよ。気分転換に絵里名さんの店に行ってみようかな?」
「今からですか?」
「せっかく招待してもらったことだし」
「付き合いますよ」
「いや、一人で行ってくる。成瀬君とはまた今度ゆっくりね」
「僕が鍵を締めるから先に帰って」と言われ、急き立てられるように診療所から追い出された成瀬は少々がっかりした。
――― あんな言い方ってないだろう?
誘われた時には躊躇したくせに、『ついて行きたい』と言って断られた成瀬は小石を蹴飛ばしながら家路についたのだった。
…… end
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