プレシャスデイズ 3 ~ 予感

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 午後の診察時間を終える頃、見知った顔が現れた。成瀬の友人である その女性、実兄が営む炉端焼きの手伝いをしているが、挨拶もそこそこに「先生はいる?」と、成瀬の肩越しに目を凝らす。その頬は ほんのり紅潮しており、成瀬は『ここにも彼の犠牲者がいる』と、冷ややかな視線を向けた。  しかし、彼女には松岡を慕う別の理由があった。  今から一ケ月前、しつこい咳を診せにきた際、人間ドックを勧められた。「金がかかる」「時間を取られる」「怖い」と拒む彼女を説き伏せ、しかもレディースプランを強く推し、極めつけは「あなた目当てのお客さんがいるんだから健康でないと」と真摯に諭す。その、日ごろ接している村の男たちとは一線を画す紳士的な態度に心射貫かれた彼女は、松岡が紹介した医療施設でドックを受け、その時初期の子宮頸がんが見つかり後日手術。今日は定期健診の帰り、手土産持参でやってきたのである。  待合室での声を聞きつけた松岡が診察室から出てくる。「まあ、先生~ぇ!」と甘えた声を出す彼女を「お話は中で伺いましょう」と、まるで高級レストランでエスコートするように招き入れ、その様子を成瀬が閉口して見ていた。 ――― 昔とは全然ちがう  彼が30代の頃、温和で人当たりが良かったが、その中に青年らしい清々しさや初々しさが見え隠れしていた。だけど、還暦目前の今は円熟した色気が滲み出て匂い立つ程。それは女性と接する時に著明となり、『もう一花咲かせたいんじゃないか?』と思わせるほどである。  診察室の丸椅子に腰かけるよう勧められた彼女――― 絵里名(えりな)嬢は、まるで恋を知った少女の様な視線を松岡に向けると 「今日、手術で取ったところの病理結果が出たんですが、中程度の…… えっと、何だっけ?」 「中程度の異形成ですか?」 「そうそう、それだったけど、綺麗に取れているから大丈夫って言われました」 「それは良かった。で、次の受診は?」 「3ヶ月後で、念のためにもう一度細胞診をするそうです。先生、ありがとうございました。先生が子宮がん検診を勧めてくれたおかげで病気が早く見つかりました」 「あなたの場合、癌になる一歩手前だったからラッキーでしたよ。人間ドックは病気の早期発見や生活習慣の見直しにつながるから1年に1回は受けて欲しいものです。もちろん、気になることがあったら気軽に ここへいらして下さい。40過ぎたら色々不具合が出てきますしね」 「先生もウチの店に顔を出してくださいな。電話してもらえたら席を取っておきます」 「じゃあ、近いうちに伺うとするかな」 「先生は命の恩人だから奢ります。なんなら、毎日でもどうぞ」 「僕もね、ようやく村の生活に慣れてきて、そろそろ居酒屋デビューしたいと思っていたところなんです。飲酒はちょっと無理だけど村の人たちと膝を突き合わせて診察室とは違った話が話がしたいので。でも、奢りは止めてください。かえって行きづらくなる。お気持ちだけ受け取っておきますね」 「じゃあ、うんとサービスします。出ないと私の気持ちがおさまらない。あ、そういえば……」そこまで言うと、成瀬の方へ振り返る。 「なるっち! なんで店に来る時、先生を誘わないの?」  診察室の隅っこで二人の会話を聞いていた当の本人は、いきなり睨まれて目を見開く。 「先生と村の連中を橋渡しするのがあんたの役目でしょ」 「……」 「初めての土地で知り合いがいない心細さは あんたが一番よく知っているんだから。今度、先生を誘って店に来なさいよ」  仕事以外での松岡との接触を避けて来た成瀬は思わず押し黙ったが、それを庇うかのように松岡が口を開いた。 「まあ こういうのは知り合いと行くより一人の方が良かったりするんです。成瀬君とばかり会話して他の人と接する機会を逃すだろうし、周りも連れがいる僕にわざわざ話しかけてはこんでしょうし。一人で乗り込んで積極的に話しかけた方が友達が増えそうだ。そう思わない? なるっち!」  自分を愛称で呼ばわった松岡が今にも吹き出しそうになっているのが癪に障ったが、一度も彼を誘わず飲み屋に行っていたことがバレた成瀬は苦虫を噛み潰したような顔になるのだった。
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