プレシャスデイズ 3 ~ 予感

3/5
37人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
 絵里名嬢が帰ったあと、診療所は台風一過のような静けさになった。ひとりで居酒屋に行っていたことが後ろめたい成瀬は事務室に引きこもってレセプト業務に勤しんでいたが、後ろで「なるっち」と呼ばれて背筋が伸びる。  恐る恐る振り返ると、松岡が診察室を隔てる出入り口にもたれて こっちを見ている。その表情は先程のニヤけ顔とは違って不機嫌そうだ。否、拗ねているといったところだろうか…… 「彼女と仲がいいんだね。店にはよく行くの?」  またその話をするのか…… とウンザリしながら、しかし平静を装うと 「週一行くか行かないかってところでしょうか」 「『初めての土地で知り合いがいない心細さは、なるっちが一番よく知っているはず』な~んて歯に衣着せぬこと言われちゃって」 「ここへ来て最初にできた友人なんです。池田のお父さんに彼女の勤める居酒屋に連れて行ってもらったのがきっかけで、以後一人で行くと余所者の自分を気遣って よく相手してくれました。この土地に骨を埋める覚悟をしてカミングアウトした時も態度を変えず、それどころか村の若い連中との間を取り持ってくれて感謝しています」 「気持ちの優しい人なんだな」 「表向きは威勢がいいけど、相手を気遣い、困っている人に手を差し伸べられずにはいられない思いやりのある女性です」 「彼女、一人身なんだよね」 「高校を卒業したあと県外に就職して、そこで知り合った男性と結婚したけど、離婚後こっちに戻ったと聞いています」 「お子さんは?」 「いないと言ってましたね」 「他人に優しく出来る人は、過去に辛い経験をしたから人の痛みに寄り添えるんだと思う。だから、彼女も色々あったんじゃないのかな」 「そういった苦労を見せない、もしくは笑って話すようなひとなんです」 「彼女の好意に甘えて、近いうちにお邪魔することにしよう」 「遠慮せず奢ってもらったらいいですよ」 「そうだな。で、たまには二人で行こうよ」 「⋅⋅⋅⋅⋅⋅ ええ」 「僕もね、ここへ来て色々ストレスが溜まってんの。愚痴を零す相手が君しかいなくて、ちょっと吐き出させてほしいのよ」 「……」 「あ…… 話していたらこんな時間になっちゃった。もう患者さんは来ないだろうから会計処理をしていいよ」 「もう始めています」 「お、さすが」  そう言って松岡が診察室へ戻ろうとした時だった。砂利を踏むタイヤの音がして窓から覗くと駐車場に一台のセダンが停車し、中から年配の女性と娘と思わしき若い女性が降りてきた。 「見たことない顔だけど、誰?」 「村でたった一つのスーパーマーケットを営んでいる奥さんと娘さんですよ。娘さん、都内の大学に通ってるって聞いたけど どうしたんだろう…… あ、冬休みで帰省してるんだ」 「どっちが患者さんなのかな?」 「娘さんでしょう。奥さんが運転していたから」  松岡は診察室に戻り、成瀬は棚からカルテを探し始める。娘が最後に来たのはいつだろう? そうだ、2~3年前 冬休みに帰省した際、インフルエンザにかかって受診したことがあったっけ…… と、記憶を蘇らせていたら、ドアが開いて二人が中に入って来た。 「診療時間が過ぎたけど診てもらえるかしら?」 「構いませんよ。今日はどうされました?」 「娘がね、体調を崩してまして。微熱と倦怠感、食欲不振が続いているんです。本人は『しばらくすれば治る』っていうんだけど、明後日には向こうに帰っちゃうんで引っ張ってきました」 「わかりました。では、熱を測っているあいだ 問診票を記入してください」  そう説明した後、成瀬は娘に目を向けたが、彼女は下を向いたまま活気のない様子。話すことを母親に任せて問診票や体温計も自分から受け取ろうとしない様に「昔からこんな感じだっただろうか?」と首を傾げる。  裕福な家庭に生まれた彼女は成績も優秀。中学卒業後は進学校へ進むために家を出た。前に受診した時は高熱で顔を真っ赤にしていたにもかかわらず受け答えがはっきりしていて利発な印象だったのに…… そんなことを思い出しながら、書き終えた問診票を診察室で待機する松岡に渡した。  松岡は顎に手をやり、真剣なまなざしでそれに目を通す。そして、患者を診察室に呼ぶよう伝えた際に こう付け加えた。「本人さんだけ呼んでくれる?」と……
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!