間違い電話

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間違い電話

 嫌な予感はあった。電話を繋いでくれたのは隣の部署に最近入ってきた新人で、かけてきたのは支店の工事部。人事部の私とはあまりやり取りのない部署だ。  私宛てではないと思うのだが、「山川さん、お電話です」と言われては出ないわけにいかない。  受話器を上げ、保留を解除すると同時に軽く呼吸を整える。その、ほんの少しの間でさえ、相手は待ってくれなかった。繋がったのと同時に 「さっきの、間違ってんだけど」  怒りと呆れを帯びた低い声が耳に飛び込む。 「午前中に送るって言いながら、こんな時間だし、その上間違ってるってどういうこと?」  パソコンのディスプレイに表示されている時刻は午後二時。どう考えても午前ではない。相手が怒るのも当然だ。散々待たされたあげく間違っていたら、それはそれは腹立たしいことこの上ない。わかる。わかります。わかるけどさ。  社内だからって名乗ることも、相手を確認することもなく一方的に言いたいことを言うのは社会人としてどうなの? そもそも「どういうこと?」っていう質問がおかしいでしょ。ただのクレームじゃん。お仕事なんだから、時間の無駄でしかない質問してどうするの? 間違えたことはもうどうしようもない。過去なんて変えられないんだから。大切なのはその上で何をするかということ。右も左もわからない新人か? いや、新人ならこの口調は余計にまずいけど。……ということを胸の中にだけ吐き出して、柔らかな声を意識する。 「申し訳ございません。私、人事部の山川と申します。どちらの部署にお繋ぎすればよろしいかもう一度教えていただけますでしょうか」 「えっ、あ、あー、設計部の山川さんお願いします」  一瞬にして威圧感は消え、気まずさと戸惑いが伝わってくる。 「かしこまりました。お待ちください」  きっともう山川さんはそんなに怒られないだろう。クレームなんて最初のエネルギーが一番大きいのだから。勝手にサンドバッグにされて、こっちは怒りが湧いてますけど。  だからといって誰にあたることもできない。繋いでくれた新人にだって「気をつけてね」と笑顔で伝えるだけ。「人事部の山川さん」は常に笑顔で穏やかで愚痴なんて言わない。今日が金曜日で本当によかった。 「もー、最悪!」  日曜日から木曜日までは一人暮らしのマンションに帰るが、金曜日と土曜日は実家に戻る。休日にまで誰かに会いたくないし、何よりダラダラしたい。 「姉ちゃん、キャラ作りすぎなんだよ」  だからそんなにストレス溜まるんだろ、と隣から唐揚げへと箸を伸ばした弟に言われる。社会に出たこともないくせに。 「……私も高校生に戻りたい」 「いや、姉ちゃんのキャラは学生の時からじゃん」  そんなこと、と言いかけて「そうだっけ?」とアルコールの回る頭で考える。とくに意識していたわけではない。周りが求めるのに合わせる方がラクだっただけで。そう、あの頃はラクだった。いつからこんなに窮屈になったんだろう。  酔っ払った頭で考えても答えは出ない。出ないというか、考えたところで仕方ないのかも。ここまで出来上がったものを今さら壊せないし。どこかで間違えたのだとしても過去は変えられないのだから……なんか同じこと昼間も思ったような。何だっけ。考えるのが面倒くさい。ビールなくなっちゃったし。炬燵に移動しよう。 「あったかーい」  座っていたのは一秒もない。ころん、と座布団の上に寝転がる。足も体もぽかぽかで最高だ。 「花、寝るなら部屋行きなさい」 「んー」  母の声に目を閉じたまま答える。じんわり伝わる温かさと慣れ親しんだ香り。ほどよく酔っ払った頭。意識は急速に薄れていく。 「明日、リフォーム頼んでる業者さん来るからね」  んー、と答えたのが声になっていたのかはもうわからない。  さむっ。目を開けると部屋は真っ暗だった。炬燵の電源も切られている。起こしてよ、と言いたいがすでに誰もいない。はぁ、とため息を気合いに変えて二階の自室へと向かう。  ベッドはもちろん冷たい。猫みたいに体を丸め、自分の体温が馴染んでいくのをひたすら待つ。寝付くまでにはまだかかりそうで、ヘッドボードの目覚まし時計を確認する。午前二時。変な時間に起きちゃったな。まあ、明日は休みだし。寝れるだけ寝ていよう。 「花! いつまで寝てるの!」  母の声で起こされる。休みなんだから、と言い返す前に「この部屋も見てもらうんだからね」と言われてようやく頭が回り出す。見てもらう。見てもらう。そういえばリフォームがどうとか言っていたような……。 「え、いま何時?」 「九時。ちなみに約束は九時半だから」  あと三十分しかない。もっと早く起こしてよ、と文句を言う間も惜しい。休日に家族以外の人と会いたくない。適当に挨拶することすら面倒だ。先に外に出てしまうのが一番。最速で外出の準備を整え、玄関に向かう。スニーカーを履いて、取っ手を掴んだところで、インターフォンが鳴らされた。腕時計を確認すれば、約束より十分早い。こういう時は相手のことを考えてオンタイムが基本でしょうが。五分ならまだしも十分は早すぎるでしょ。と、文句を言えるわけもなく。 「おはようございます」  笑顔でドアを開ける。スーツ姿の男性と、作業着姿の男性が二人。 「おはようございます。すみません、少し早く着きすぎてしまって」  スーツの方が笑顔と申し訳なさを混ぜた表情を見せ、頭を下げた。謝るくらいなら適当に時間潰してから来ればいいのに。というかもう一人は頭を下げることすらしてないんですけど。 「いえいえ」  穏やかに返して、後ろに立つ母にバトンタッチする。「失礼します」と軽く会釈して横を通り過ぎる……はずだった。 「あの」  作業着がこちらを振り返る。低く響く声に足が止まる。 「何か?」 「昨日はすみませんでした」  大きな体がいきなり直角まで下がり、面食らう。挨拶を交わしていた母とスーツもこちらを振り返る。 「――支店、工事部の妹尾です」  頭を下げたまま告げられた名前に、一瞬にして昨日の出来事が蘇る。あの電話の……と思い出したはいいが、どうして私だとわかったのか。面識はないはずだ。え、なんで。え、怖いんだけど。 「えっと」  笑顔を保ったまま、声だけで困惑を伝える。 「本当に申し訳なかったです。山川さんは何も悪くないのに。一方的に言ってしまって」 「あれはこちらの繋ぎ間違えですから」  お気になさらず、と伝えて終わるはずが、顔を上げた相手はさらに続けてくる。 「いえ、僕が確かめなかったのが悪かったので。本当にすみませんでした。まさか、その、山川さんだったとは思わず、本当に……」  その呼び方が、単なる間違えた相手ではなく知っている相手に対するものに聞こえ、ますます困惑する。面識ないよね。ないと思うんだけど……あ、とひとつの可能性を見つけ、思わず尋ねる。 「もしかして、――年入社の方、ですか?」 「そうです!」  なるほど。そういうことか。人事部での私の担当は中途採用で、新卒採用の業務はやっていない。選考期間も方法も異なるので完全別業務……なのだが、一度だけ手伝ったことがある。と言っても面接を待つ学生の案内だけで、そのとき手が空いている誰かがやる、くらいのものだった。希望職種ごとの二次面接。手伝わねばならない期間は一週間で、曜日ごとに振り分けられた。そして割り当てられた日が、工事部だった。接点があるとすればそれしかないと思ったものの、四年も前だし、たった数分しか関わっていないのに覚えているものだろうか。 「あの日、すごい緊張してて、次だと思ったら、用意してた答えが全部飛んじゃって」  切実な響きに、とても不安だったことが伝わってくる。 「名前を呼ばれて、きっとみんなにしてたと思うんですけど、山川さんにポンって軽く肩を叩かれて、それで『大丈夫だよ』って言われて、なんかその瞬間に不思議と力が抜けたっていうか」  そうだ。彼だけにかけたわけではない。全員ではなかったが、明らかに不安そうな子には同じことをしていた。でもそれは心からの応援というより、その場に相応しい、「人事部の山川さん」らしい言葉を選んだだけだったようにも思う。声をかけた全員が受かればいいなんて思ってはいなかったし。 「ずっとお礼が言いたくて。あの時は本当にありがとうございました」  再び頭を下げられ、どうしたものかと言葉が出てこない。正直、ここまで感謝されると後ろめたさが出てくる。私はそんな人間じゃないから、と。 「花」  母の声に振り返る。 「時間大丈夫?」  その言葉に、ハッとなったのは私ではなかった。 「すみません」  お引き止めして、と顔を上げると、今度こそ妹尾さんは「失礼しました」と二人の方に体を向けた。  母の苦笑いに視線だけで応えて、門扉へと向かう。スーツの男性が妹尾さんに注意する声が背後で聞こえた。  地元なので知り合いに会う可能性はとても高い。少しでも確率を下げるべく、同年代はあまり選ばないであろう古びた喫茶店に入る。  染みついたタバコの匂い。えんじ色のソファ。ボックス席の並ぶ店内、カウンターにあるサイフォンは使い込まれているのがわかる。ざっと見渡す限り、いるのは年配の方ばかりだ。  そっと息をついてから、空いている席に座る。一人では贅沢な四人掛けの席。モーニングの時間帯だったので、コーヒー一杯頼むだけでトーストとサラダまでついてきた。  こういう私はどちらなのだろう、とふと思う。  会社で一緒に働いている同僚も、かつての同級生たちも、私がこういうお店を好むとは思っていないだろう。  けれど、実家での自分とは違い、外用の愛想のよさは持っている。運ばれてきた瞬間に「ありがとうございます」と返すくらいには。時短になったとはいえ、化粧もしている。 「伝票こちらに置いておきます」  店員はいかにも新人アルバイト、といった不慣れさを見せる。緊張しているのだろうな、と思ったからこそ自然と笑顔を作っていた。 「……四年前、か」  妹尾さんの話を思い出す。四年も前なので正確ではないかもしれないが、私にもいくつか覚えていることはある。  案内だけなら、と軽い気持ちで引き受けたこと。学生たちの緊張感が痛いくらい伝わってきたこと。そして、「ただ案内するだけ」以上に私ができることは何だろうかと考えた。与えられた仕事をこなすことしか考えていなかった自分が、おそらく初めて自発的に動きたくなった瞬間だった。「人事部の山川さん」としての私だったとしても、私が思ったことには違いない。  ああ、そっか。私は今もずっと自分を作り続けているのか。一度作ったものを維持するだけでなく。きっとまだまだ変化していくのだ。窮屈に感じることももちろんあるけれど、きっと間違えではない。作り上げた私にしかできないことがある。妹尾さんに声をかけたのも、理不尽な電話に愚痴をこぼすのも、どちらも私には違いないのだから。  ――姉ちゃん、キャラ作りすぎなんだよ。  弟の言葉を思い出し、声に出さずに笑ってやる。  作りすぎ上等だ。自分を疲弊させない程度には。  ふと、昨日の最悪な電話の妹尾さんと、先ほど家の前で見た妹尾さんが思い出される。印象は全く違うが、どちらもニセモノではない彼自身だった。まっすぐ感謝を伝えてきた顔を思い浮かべる。もしも彼が実家での私を、心の声を知ったなら、どんな顔をするだろうか。幻滅するかな。こんなの「山川さんじゃない」っていうかな。会社の誰かになんて絶対バレたくないのに。この想像は不思議と心を弾ませた。 「昨日、花が言っていた電話の相手が妹尾さんだったなんてね」  喫茶店で時間を潰し、昼過ぎに帰宅すると母が楽しそうに言った。 「『山川さんのお宅の件だったので、思わず感情的になってしまって』だって」 「え?」  母がお茶を淹れてくれるのを、炬燵でみかんを剥きながら待つ。 「今回のリフォーム、花からの紹介にしたじゃない。その方が安いからって」  そうだ。そうだった。つまり妹尾さんは私の実家だと知っていて、知っていたからこそ間違われてあんな態度になった、そういうこと? 「一緒にいらした方も『いつもはあんなふうじゃないんですが』って」 「ふーん」 「なんか一生懸命で可愛かったわよ」  それはなんとなくわかる。わかるけど「ふーん」と適当に返した。なんだろう、このくすぐったいような感覚は。みかんの甘酸っぱさのせいにして、緑茶をすすった。  週明け、昼休み明けのタイミングで電話が鳴った。内線ではなく外線。外部ではなく社用携帯。瞬時にディスプレイを確認して受話器を上げる。 「人事部、山川です」 「あ、あの、――支店、工事部の妹尾です」 「……土曜日はありがとうございました」  瞬間的に飲み込んだ息は、跳ねた心臓を落ち着かせるため。きっと内線番号を間違えたのだろう。設計部も同じフロアだし、同じ苗字だし。部署を確かめる前にかけてしまったのかも。検索システムの表示がわかりづらいのは私も思っていることだ。 「設計部ですよね。少々お待ちください」 「いえ、違います」  保留ボタンへと向かった指先が途中で止まる。 「間違えていません。山川さんにかけました」  それはどういう意味だろう、と思うのと同時、落ち着かせ損ねた心臓がくすぐったく揺れたのを自覚する。間違いではないことが嬉しかった。けれど、これはあくまで社内の電話だ。 「どのようなご用件でしょうか」 「あ、すみません。えっと」  明らかに戸惑った様子に笑いそうになる。 「妹尾さん」 「はい」 「私の実家の件でしたら、週末にまたお会いしたときにでもお聞きしますので」 「は、はい。よろしくお願いします」  どちらかと言えば、依頼主はこちらなので「よろしくお願いする」のは私の方だと思うのだけど。ほっと安堵の混じる声色に、言葉にしなかった意図を読み取ってくれたのだとわかったので 「こちらこそ、よろしくおねがいします」  と仕事用の声で返す。そして電話の相手にだけ聞こえる声で「お会いできるのを楽しみにしてますね」と付け足した。  いま、この瞬間の自分が仕事用の自分ではないことを自覚しながら。
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