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粉雪
絵を描いていると他のことはどうでも良くなる。見えないし聞こえなくなる。
ヴァイオリンにピアノ、体操、塾。習い事は物心がつかないうちからたくさんやってきたし、受験もこなして有名な進学校に合格できた。
楽しくないわけではなかったし、それなりにやりがいはあった。親が喜ぶ顔を見るのは子ども心に誇らしかった。
でも、絵だけだ。
僕が僕であることを忘れさせて、且つ、僕がどんな時よりも僕でいられるのは。
絵画を習ったり、美術部に入ることはしなかった。
弓道部と幼少期から続けるヴァイオリンのレッスン、それに複数の予備校通いで、すでに日々の予定は一杯だったからだ。
それに、「義務」にしてしまうことで心が離れてしまうかもしれないと危惧した。
僕はそのくらい絵を描くことを、何と言うべきだろうか、欲していたのだと思う。
野生動物が水場で水を飲むように。あるいは、僕自身にその経験は未だ無かったが、恋愛のように。
親をはじめとした周囲の人間たちは、やるべき事さえきちんとこなしていれば僕に対して驚くほど無関心だった。
僕はそこを大いに利用させてもらうことにした。
実害のない程度に部活やレッスンをスキップした。
空いた時間を使って絵を描きまくる。
対象はほとんど何でも良かった。誰もいない教室、平凡な一軒家、雑居ビル。道行く人々。草花に虫。
単純に家にも予備校にも行きやすいという理由から、そのうち家の最寄り駅に腰を据えて描く時間が長くなった。
高校2年の夏のことだ。
通う学校や予備校、そこに通う道といった自分のよく知るテリトリーよりも、さまざまなものや顔があった。
老若男女、スーツに作業着。赤ん坊。いつも同じ時間に駅前に来て腰を下ろし、同じ時間に帰っていく男性は冬だというのに半袖短パンなのだった。ドレスのようなものを着て、いけないことなのだろうが鳩に餌を撒く年齢不詳の女性。
それからこの駅には野良猫(それとも飼い猫だろうか?)が多い。複数を描くうちに猫の顔を区別できるようになって、こっそり名前を付けた。
そんなひっそりと閉じられた僕の世界に、「異物」が飛び込んできたのは残暑の頃だった。
何をしている、何を描いていると尋ねられるのは初めてではなかったから、事実のみを簡潔に答えた。
相手を追い払う意図でそうしているのではなかったけれど、大抵の人間はしばらく僕の手元を眺めて、そして満足するのか立ち去って行く。
けれどあいつは違った。
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