粉雪

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航、と名乗った。 県立J高校の2年生だそうだ。同い年。 僕の学校の名を聞いて、「すげえ、超おりこう高校じゃん」と言った。 おりこう高校、という言い回しが気に入った。僕は少し笑ったかもしれない。 その通りだったし、それ以上でも以下でもなかったから。 航は絵を描くことに興味や知識があるようには見えなかった。 けれど初対面のその時、航は僕の定位置に1人分距離を置いたとなりに座って、あまり意味のなさそうなことをぽつりぽつりと話して帰った。実に2時間も。 明るい茶色の髪の毛。意図的なのかそうでないのか、着崩した制服。 変なやつ、と思った。 1週間後、同じ曜日。航はまた現れた。 よお、と言って。 まるで昨日も会ったような、まるで旧知の仲みたいな顔をして。 「まあまあそんな顔するなよ。俺、青の絵、好き」 僕がそのときどんな表情をしたか、自分ではわからない。驚き、戸惑い、照れ、疎ましく思う気持ち。それらすべてが少しずつ均等に表れていたかもしれない。 僕がその男を航と呼び捨てするようになったのは、それから約1ヶ月後のことだ。 「あ、食う?」 袋から取り出したパンを、長く骨張った指で2つに割る。 それで自分が航の手をさっきからずっと見ていたことに気付く。 毛先をねじってみたりシャープペンを持ったり(学校の課題をこなしていたらしい)、蟻をつまんだり(何をしているんだか)していた、手。 バスケ部員というだけあって、航は背が高い。僕が小柄なことを差し引いたとしてもだ。 背が高い人間は骨も大きいから、大抵、手も大きい。 絵を描く者の習性か、骨格のつながりを考えてしまったり、かと思えば細部を凝視してしまう癖がある。 食べたくて見つめていたのではなかったけれど、小腹が空いていたから有り難くパンをもらう。 「それさ、うちの高校の購買で売ってる甘食なんだけど、評判らしくて近所のおばあちゃんとかも買いに、学校に勝手に入って来るんだよね」 「ふうん…」 口の中がもぐもぐしてうまく話せない。 「僕の高校に、部外者が入って来るなんて考えられない。IDチェックをしないと購買部で買い物をすることもできないんだから」 するとただ一言「すげえ」と返すのだった。 僕の絵を初めて見た時と同じように。 うまく話せないのは甘食が口中の水分を全部持っていくからだけではたぶん、ない。 航と知り合って実感したけれど、僕は今まで人と雑談というものをした経験がなかった。 それは僕が幼い頃から習い事や塾づくめだったことや、厳しい受験にさらされてきたこととは関係ない。 純然たる、僕個人の問題として。 絵を描くことに、描く対象に夢中になりすぎて、生身の、ただそこにいる人間の話すことや行動に興味が振り分けられなかったのかもしれない。 だから僕は航がたった3文字、「すげえ」と言うだけで困惑するし、面白いと思う。 航が話すちっとも重大ではない些末なエピソードは、かえって興味深かった。そんな物の見方もあるのだと。そんな風に話をしても良いのだと。
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