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忘れ物に気付いた貴方は家に戻って玄関のドアを開けリビングに向かった。今日は仕事が休みの妻が家にいるはず――と思って居間に入ると半透明の曇りガラスみたいな何かがソファにいた。
「失礼しました」
咄嗟に頭を下げ後戻りしたが、ここが自宅なのは間違いない。怪訝な表情で居間へ戻る。同じ何かが同じ姿勢でソファの上に……座っているのか? 貴方は正体不明の物体を無言で見つめ続けた。やがて、その半透明の何かが虹色に輝いた。
「○●さん?(筆者注:ご自分のお名前を入れてお読み下さい)」
聞き覚えのある声だった。貴方は呻き声を絞り出す。
「つ、妻ぁぁぁ?(<妻>の部分は他の名前に置き換えてお読み頂いても構いません)」
「どうしたの?」
「それはこっちのセリフだよ。どうしたの? なんで? こんなになって……えっと、てか、何なの?」
半透明となった妻は「自分は今メンテナンス中なの」と言った。
「め、めんてなんす?」
美貌とスタイルを維持するため、定期的にスキンのデータ換装が必要なのだと貴方の妻は言う。
「恥ずかしいから見せたくなかったけど」
忘れ物をしたから戻るとメールすべきだったのか……と貴方は悔やんだが後の祭りだ。化粧や美容整形やエクササイズの最新版は外見を最先端の光工学を使って美しく変化させるもので、それは軍用技術である光学迷彩の民間転用である……とテレビニュースで見た覚えはあったが、それを自分の妻が利用しているとは知らなかった。
騙された! とは思わない。貴方は妻の見かけだけでなく、中身にも惹かれて結婚を決めたのだ。妻を愛しているから、すべてを受け入れると心を決めて、半透明の妻に「ごめんなさい」と謝る。妻はうんともすんとも言わなかったが、拒絶している気配はなかった。アップデートが大変で答える余裕がないのかもしれない。
やがて妻は言った。
「夫婦なんだから、これぐらいのことで謝らなくたっていいと思う。ところで、どうしたの?」
忘れ物をした、と貴方は答えた。半透明の妻が尋ねる。
「何を忘れたの?」
「お出かけ前のキス」
半透明の妻が真っ赤になった。
「え、あ、うん、そう」
「時間が無いから、早くキスしよう」
「あのね、ちょっと待ってくれる?」
「どうしたの?」
「口唇は、ちょっと」
「どうして?」
「調整に時間が掛かるの。キスするのは、待ってもらいたいの」
「なんでさ?」
口唇は現在、特注の形状・質感・水和豊潤度・光反射率その他もっとも高額な光学処理で、精緻な再合成の真っ最中。光素子や転写粒子を用いた精密な作業が終わらないと、キスができない――みたいな説明を妻から聞いて、貴方は溜息を吐いた。気の毒そうに妻が言う。
「だから……お願い。我慢してね」
「嫌だ。僕は君とキスするまで出勤しない」
子供みたいだと自分でも思ったが、子供ではない体の部分が不定形の妻に反応して、コントロール不能となっている。心身を鎮めるには、それなりの対価が必要だった。
妻は説得を諦め、貴方の希望を受け入れた。
「でも、見た目は合成中だから、期待しないで。私は素の自分に自信がないの」
ネガティブな発言を繰り返す妻の口唇を情熱的なキスで塞ぎ、貴方は出勤した。職場に着くと同僚の女性たち全員が驚いた。
「▽▼さん(筆者注:ご自分の名字を入れてお読み下さい)、その唇、どうしたんです! 凄く奇麗ですけど! セクシーすぎるんですけど! それ、どういうメイクなんです? どうしたらそうなったんです?」
どうもしないよ、と言いつつ洗面所へ行き鏡を覗いて目を丸くした。貴方の大好きな妻の、その中でも特に気に入っているパーツである口唇が、鏡の中にあった。これは口唇の再合成ミスか? と思ったらスマホに妻から連絡が来た。再合成時の無理やりな接触のために不具合が生じ貴方の唇が自分の口に再構成されてしまった、とのことである。要するに夫婦で指輪ならぬ唇の交換が起きてしまったのだ。
「どうしよう? ちょっとセクシーすぎるって女性陣に言われたんだけど」
「早く戻ってきて! 時間が経つと唇のスキンが固定化されるらしいから、その前にキスしながら再々合成して取り替えましょう!」
貴方は「家に忘れ物をした」と言って仕事場を出て自宅へ向かった(妻が貴方の職場へ来ても良かったが「この唇じゃ恥ずかしくて外出できない」と拒否した)。自宅に戻った貴方は妻と何度も接吻し、再合成の過程を繰り返して、お互いの唇を取り戻した。
§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §
高致死率感染症の蔓延防止目的でフルフェイス型防毒マスク着用が全人類にとって常識化する直前、実際に起きた出来事だと古い歴史書に記録されているのだが、この話を私たち現代人に示しても信じられないだろう。我々は病気が怖くて他人と触れ合うことが出来なくなっている。性欲を抑制する物質で本能による偶発的事故を防ぎ人工授精で子孫を作るのが当たり前の現在においては「唇同士を接触させる行為なんて不潔すぎ、絶対ありえない! キモ! マジ勘弁だわ」と思う方が大半だと思う。この話を不快に思われる向きも少なからずいるはずだ。
それでも古い歴史書の欄外コラムに記載された挿話を転載したのには、訳がある。
デジタル大辞泉「スキン」の解説には『コンピューターのアプリケーションソフトのウインドーや文字、ボタンなど、操作画面上での見栄えに関する情報を記録したデータのこと』と書かれていた。
筆者が「スキン」と聞いて思い浮かべたのは、デジタル情報ではなく薄くて破れにくくオリンピックの選手村で配布される合成ゴム製品なのだが、小説投稿エブリスタの利用者にとって真っ先に連想する物は何なのか? それが気になったためだ。
どうか正直に答えていただきたい。
「スキン」と聞いて最初に頭の中に湧いてきたものはデジタルデータですか? それともアナログだけど自動販売機で売っているものですか(肌とか皮も訳としてありですけど答えとしてはなしで御お願いしますって誤字だよね~何を焦っているのか! でも訂正しませんキリッ←なんだコレ)?
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