キオクとクウハクのディクショナリー

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ

キオクとクウハクのディクショナリー

おはよう。 今日も無事に自分のことがわかるみたい。 けれど、いつどこでどうなるかなんて神さまでもわからないから、どうなるかわからない私は、あなたのために辞書を作ってみた。 ふふ、どういう辞書だって? 私が言った言葉が持つ、真の意味というか含蓄というかを教えてあげる。 私が放ちそうな言葉のひとつひとつをピックアップして、それにはこういう意味があってこういうことなんだよっていう、私語録的な? 違う違う、そんな上から目線のヤツじゃない! そりゃあ、あなたとは性格だって正反対、すれ違って当然の別人格だから、わかり合えないことだってあるかもだけど。 だからこそ、わからない時にはこの辞書を開いてみて。さすれば、「そうかキミはだいたいこんな風に考えてるんだな」って、わかるだろうから。 この辞書が正解で本物と思ってくれて構わない。 え? やっぱり上から目線だって? それがどうした文句ある? とにかくなんで今、あなたが笑ってるのかわからないけど、この辞書を常に側に置いておいて。 ✳︎ dictionary 例① もし私が 「どっちでもいい」 と言ったなら (それは本当にどちらでもいいってことなの。どちらか片方を気に入ったのなら、ちゃんとこっちって主張するから。あなたは気にせず、好きなようにどちらでも選んでくれていい) 注釈:あれはあなたと初めて出会った日。社会人になってもいまだ慣れないコンパの席だった。 私の前には男性が二人いて、モテない私は、「これだからコンパってヤツァ」と、くさってアルコールをバカみたいにガブ飲みし。 そんな私に向かって、右側の人が「飲みすぎですよ」とぴしゃんと叱り、生中のジョッキを私から取り上げてくれた。それがあなただった。 送ってくれるというコンパの帰り、どっちでもいい、ではなくて「右側の人がいいです」とちゃんと主張したのは、私の人生において1番の功績。 雷にでも打たれたかのようにどかんと恋に落ちたコンパのおかげ、その後のあなたのお眼鏡にかなった、私の豊かなる人生はこの日、始まりを告げることとなる。 例② もし私が 「覚えてない」 と言ったなら (まあそれについては実際問題、私は本当に忘れっぽくて、本当に覚えてないかもだけど。でも安心して! 思い出はちゃんと覚えているから、これ反対語だから!) 注釈:あなたと結婚して数年、そうやすやすと来てはくれない小さな命を待ちわびて待ちわびて、どうして神さまはこうも意地悪なのかと、狂ったようにクッションをサンドバッグにし、大泣きしたあの日。 「ふたりで生きていこう」 あなたがそう言って涙を拭いてくれたことは、もし私が記憶喪失になったとしても、決して忘れないからね。 あなたのそのひと言で地獄のどん底から救い出されたってこともちゃんと覚えているし、それからやっとの思いをして授かった娘をこの腕に抱いた日のことも、鮮明に覚えている。 病室のカーテンから射す朝日が、娘のふっくらした頬を照らしていて、その光がこのうえなく優しかったのを覚えている。 例③ もし私が 「そんなこと知らない!」 と言ったなら (温厚な私にしては珍しいかもだけど、怒っていると思ってくれていい) 注釈:あれは絶対に一生許せないことだけど、夜、大泣きが続いていた娘をあやすため、クマとかアザラシとかのヌイグルミを2階の娘のオモチャ部屋へと急いで取りに行こうとした時のこと。 横着して電気をつけずに階段を駆け上がったから、最後の一段を踏み外して、そこから階下まで転げ落ちたことがあったね。 盛大にスネと尻とを打ちつけ身悶えていたら、あなたはなんだなんだなにがあったと駆けつけてくれたけど、弁慶の泣きどころを押さえて悶絶している私を見て。 ……笑ったよね? 第一声。 大丈夫? じゃなくて……笑ったよね? あの日の恨みは絶対に忘れないから! 温厚な私だって、怒ることもあるのだ。それを肝に命じておくんだな! 例④ もし私が 「そんなこと言ったっけ?」 と言ったなら (自分で言うのもなんだけど、それはなんとなく本当に忘れてそうな気がするから、覚えてないんだなって思って、スルーして。なにか決めなきゃいけないことがあったなら、どんどん話を先に進めちゃっていいからね) 注釈:あなたに対して放った文句や悪態の数々、あれは愛情の裏返しっていうか、口が勝手に喋り出したというか、感情任せな部分もあるから、そんなもん全部忘れていいよ。 ってえ? 覚えてるって? 「このすっとこどっこいのマヌケ(ヤロウ)があぁぁぁ!」 ……え、言ったっけ? 物忘れ激しい私と記憶力抜群なあなたよ。 しっかし私、そんなセリフ(悪口)言ったっけかなあ。しれっ。 例⑤ もし私が 「あなたは誰ですか?」 と言ったなら (これありがちだけど、いやいやもちろん、あなたは私の夫だしこの子は私の娘だし最愛の家族だからあなたは誰? なんて本当は絶対にあり得ないんだから。もし私の口がそう言ったとしても、絶対に覚えてるのに決まってるんだから。だから逆に、「俺だよ俺! キミの旦那だよ! ったく忘れっぽいんだからあ」なんて絶対に言わないでよ! そんなん言われたら、バカにすんなそれくらい知ってるし! って逆ギレちゃうからね!) 注釈:若年性認知症と診断されて、きっとこれからどんどん記憶が薄れていって、脳の中の空白がぽつりぽつりと増えてきて、今までつくりあげてきたはずのものを今度はひとつひとつと失っていくのだろうけど。 けれど、思い出はずっと脳内にとどまって眠り、あなたからもらった愛情はいつまでもこの胸に残り、楽しくて幸せで温かくて嬉しくて美味で時々は悲しくて寂しいこともあったけど、この多幸感は私が息を引きとるまで永遠、私のなかで続いていくんだよ。 患ったこの病気のせいでこのまま記憶をなくしていくのだとしても。 だから泣かないで、もちろん私も泣かないから。 私があなたや娘を忘れてしまったように見えた(思えた)としても、実際にはそうではないんだよって、この辞書さえあれば、わかるはず。 私の記憶と空白のなかには、あなたを忘れてはいないということ、いつも幸せなのだということ、娘の成長する姿でいっぱいなのだということ、握った手をいつまでも離さないということ、ずっとあなたの温もりに包まれているということ。 そんな思い出の荷物をたくさんたくさん詰め込んで旅立つから。 娘のことはくれぐれもよろしく。ついでに忘れるといけないから、金魚のエサもよろしく。 例⑥ もし私が 「     」 と言ったなら (私の記憶の空白にはいつもあなたと娘がいてくれる。だから今度はあなたと娘の記憶のなかに、 私がいつまでも残りますように、ありがとう)
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!