忘れられた恋人たち

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              早朝の小さな駅の改札を抜けて人気のない駅前のロータリーまで出ると、彼は大きく深呼吸をした。 そして、ゆっくりと周りを見渡す。 5年前にこの町を出た時のまま、まったく変わっていない。 駅舎も、右手に見えるうっそうと茂った山も、左の林の隙間から見える海も、その海に向かってゆっくりと下るこの一本道も、そしてまるで薄い緑の色が付いたような爽やか空気も。 何もかもが変わらないまま、故郷は彼を向かい入れてくれた。 彼は高校を卒業するとこの町を離れ都会の大学に行った。 そして大学卒業後すぐに就職。 一年が経ち、やっと落ち着いてきたところで、ちょっとまとまった休みが取れた。 気が付けば5年も実家に帰っていなかったので、この休みを利用して彼は故郷に帰ってきた。 3月に入ったばかりなので、まだかなり寒い。 この海沿いの一本道を行くと海岸近くに小さな喫茶店があり、その喫茶店を過ぎてしばらく行くとバス停がある。 そのバス停には、雨に濡れないようにと簡単な屋根の付いたベンチが設置されている。 そのバス停を過ぎると、すぐに彼の実家がある。 バスで行けば一駅だが、歩いても20分位で行ける。 ちょっと早く着き過ぎたし、周りの風景も懐かしいし、そんな理由で彼は実家まで歩く事に決めた。 彼が歩き始めようとした時、後ろから突然声を掛けられた。 「お久しぶりです」 彼が振り向くと、そこには見知らぬ25、6才と思われる男性が立っていた。 いや、ちょっと待て! 見知らぬと思ったが、なんかこの人、見覚えがあるような、ないような… 「僕ですよ、加島勇一ですよ」 かしま…ゆういち…? なぜかその名前も聞き覚えがあるような、ないような… 「あれ?忘れたんじゃないでしょうね、僕の事」 「い、いや 忘れた訳じゃないんだけど、思い出せなくって…」 同じ事だ。 しかしこの人、この寒いのに、なぜ半袖? 「ちょっと、しっかりしてくださいよ。 あなただけが、僕と彼女の運命を決められるんですから」 「運命を決められる? …どういう事?」 「そりゃあね。 もし不幸な結末が待っていても、たとえハッピーエンドにならなくても、僕はそれを受け入れる覚悟はありますよ。 でもねぇ、忘れたっていうんじゃ困るんですよ。 たとえ世間様は許しても、この僕が許しませんよ!」 「いや、そう言われても、なんの事やら…」 「じゃ、ヒント! これは何でしょう?」 そう言って、彼は握っていた手を広げて見せた。 その手のひらには、小さな指輪が乗っていた。 しかし、普通の指輪ではない。 本来石があるべき箇所に、極小さい白と茶色の巻き貝が付いている。 「ほら、思い出した!」 「全然」 相変わらず、さっぱり分からない。 確かにこの特徴的な指輪にも、見覚えがあるような気はするのだが… 彼はすごくガッカリした表情で、この上なく落ち込んだトーンの声でこう言った。 「この思い出の貝殻の付いた指輪を持って、この先の喫茶店で待っいる彼女の所に行って、これからプロポーズしようとしてるのに…それを、忘れるなんて…」 しかも、ちょっと涙声だし。 「じゃ、この先の喫茶店で、あなたの彼女が待ってるんですか?」 そう言って下り坂を見てから振り返ると、そこにはもう彼の姿はなかった。 あれ? どこ行ったんだろう? きょろきょろと見渡したが見当たらない。 仕方がないので、予定通り歩いて実家に向かう事にした。 途中、彼の言っていた喫茶店『ポエムっち』がある。 ここもちっとも変わらない。 しかしこの喫茶店の名前だけは、昔から意味が分からないな。 気になって『ポエムっち』の近くまで行ってみた。 早朝なので、店はまだオープンしていない。 彼が言うには、ここで彼女とやらが待っているはずだが誰もいない。 するとまた後ろから声を掛けられた。 「ご無沙汰~ 元気してた」 振り向くと、さっきの彼と同じ位の年齢の女性が立っている。 しかも同じなのは年齢だけではない。 なぜ彼女も半袖? 「私、彼と幸せになりたいの。 よろしく、ねっ!」 「いや、よろしくも何も、君一体誰?」 「うっそ~! まさか忘れたんじゃないでしょうね。 私よ私、桃香よ! 西野桃香!」 にしの…ももか…? 誰だったかなぁ… 確かに覚えはあるけど、思い出せない。 「なんかヒントはないんですか?」 「ヒント? クイズ番組じゃないし」 「でも、なにか思い出すきっかけみたいな…」 「じゃあね、この先にバス停があるでしょ。 そう、あの屋根の付いたベンチのあるバス停。 あのベンチで私と彼は初めて出会ったの。 雨の日にね。 思い出のベンチよ。 あのバス停まで行って思い出せなかったら、もう私、キッパリ諦めるわ」 「この先のバス停ですよね」 そう言ってその方向を指差し、彼女を振り返ったら、やっぱり消えていた。 二人に言われた事を考えながら、とぼとぼとバス停に向かった。 名前に聞き覚えはある。 顔はハッキリしない。 貝殻の指輪。 『ポエムっち』で待つ彼女。 そしてプロポーズに行こうとしている彼。 自分が二人の運命を決める。 しかも、なぜか二人とも半袖。 バス停に到着し、ベンチに座ってみる。 「そしてここが二人が初めて出会った、思い出のベンチか…」 思い出の… あれ? …あれ、あれ? ちょっと待てよ? …あれ?もしかして… そ、そうだ!間違いない! すっかり忘れてた! 彼は急ぎ足で実家に向かった。 「母さん、ただいま」 「あら、早かったじゃない。 ご飯、出来てるわよ」 「うん、あとで食べる。 それより、僕の部屋そのままになってる?」 「誰も入らないわよ」 「よかった」 そう言うと彼は階段を駆け上がり、5年ぶりの自分の部屋に飛び込んだ。 机の一番下の引き出しを、ガサガサと掻き回す。 「あったー!」 彼は原稿用紙の束を机の上に置いた。 それは彼が高校生の時に書いた小説だった。 題名は 『夏の恋人達』 主人公は加島勇一と西野桃香。 季節は夏。 この辺一帯を舞台として、雨の日のバス停のベンチで出会った二人が、喧嘩をしながらも引かれ合い、最後に彼は彼女にプロポーズするために、思い出の貝殻の付いた指輪を握りしめ、彼女の待つ『ポエムっち』に向かう。 しかし、この小説は未完だった。 最後の結末を書かないまま、彼はこの小説を机の引き出しに入れ、大学に行ってしまった。 そして、5年の都会生活の間に、すっかり忘れていたのだった。 だから半袖だったのか。 だから僕しか二人の運命を決められないのか。 彼は残っていた原稿用紙を取り出すと、続きを書き始めた。           MADE IN SAO 2010
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