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― とおきやーまに 日はおーちて ―
スピーカーから、夕暮れを告げる町内放送の音楽が鳴り出した。保育園の帰り道。私は母の手を繋ぎながら、ただ歩く。空はうっすらと茜色に染まり、風はやや涼しい。
蜩の声と、秋のトンボが飛んでいて、季節の変わり目を告げていた。
母の手は温かいにも関わらず、その表情は暗い。何か聞きたいのに、聞いてはいけない。幼い私の心には、そう刻まれていた。
「ねぇママ、今日のお祭りは行ける?」
ようやくその一言を絞り出す。今日は山の麓にある神社の夏祭りだ。この祭りが終わると、本格的に秋になる。
この前祖父から、神社の境内にはたくさんの夜店が並ぶのだと教えてもらったばかりだ。金魚すくいにかき氷、おもちゃを売るお店もある。保育園のみんなも行くと言っていた。
だからどうしても、行きたい。
母の顔を見上げても、母は私を見ようとはしない。そしてしばらくすると、私の手を握る母の手に力が入った。
ああ、聞いちゃダメだったんだ。
「そうね……パパが帰ってきたらね……。パパに連れてってもらいなさい、朱里」
いつまで待っても、母は私を見ようとはしない。
ママは怒ってる。なんでかな。でもきっと、聞いたらもっと怒られる。行きたかったのにな。今日だけはどうしても行きたかったのに。おじいちゃんがいたら、連れてってもらえたのかな。
パパはきっと、今日も私が起きている時間には帰ってこない。
最後に父の起きている顔を見たのはいつだろう。いつでも夜遅くに帰ってきて、私が保育園に行く頃にはもういなかった。
だから父の顔が思い出せない。
どんな顔で、どんな声で、どんな風に……。
― カナカナ カナカナ ―
どこかもの悲しい蜩の鳴き声が、夏の終わりを告げていた。父が家に帰ってくることは、もう二度となかった。
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