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隣りのキッチンから聞こえる水を流す音や皿を重ねる音を聞きながら、ケントは彼女が淹れてくれた珈琲を一口飲んだ。カリンは今日はカレーを作ってくれた。それは彼自身が作って欲しいと頼んだ料理だった。いつもの様に彼女が作る料理は美味しい。
少しして皿洗いを終えたカリンが居間に帰って来た。二部屋しかないアパートの一室だ。
「じゃあ、私帰るね」
カリンはそう言うと、洗い物をした後のまだ湿り気のある手で、置いてあったハンドバッグを手に取った。
「もう少しゆっくりしていけよ」
「ダメ。ここのところ仕事忙しいって言ってるでしょ」
「でも」
「料理も作ったから、いいでしょ。カレーの残りがまだ鍋に入ってるから、明日も食べてね」
そう言うとカリンは笑顔を作って部屋を出ていく。ケントは彼女を見送るために一緒に立ち上がった。
「じゃあね」
「うん」
小さく手を振ってカリンは家を出た。玄関の扉の閉まる音が空しく彼の耳に響き、彼女の靴を鳴らす音が徐々に遠くなった。
一人になったケントは物足りない表情をして居間に戻ろうとした時、キッチンの流し台の横に何か置いてあることに気付いた。
「髪留め…、か」
彼女が部屋に来た時に気付いていた。普段は髪留めなんて付けないので珍しいなと思っていた。それは束ねた髪に付けるものではなく、主に側頭部あたりに付けるタイプのものだ。乳白色のシンプルな細長い髪留めが二つ置いてあった。
「またか」
前に家に来た時も彼女はネックレスを忘れて帰って行った。新しく買ったんだけどなんか肌に合わない、と言って外したまま家を出て行ったのだ。今日家に来た時にそれを渡したばかりだった。
ケントは髪留めを持って居間に戻り、それをテレビが据えてある台の上に置いた。そして、そのままテレビを付けてぼんやりと賑やかな画面を眺め続けた。
カリンは以前はよくケントの部屋に来た。その時は泊って行くこともよくあった。しかし次第に部屋に来ることは減り、泊っていくことは無くなってしまった。ことに最近は今日の様に料理を作って二人で食べた後、すぐに帰ってしまうのである。仕事が忙しいから、というのが彼女の理由なのだが、それが本当かどうかは彼には分からなかった。
ただ自分に対する気持ちがなくなってしまったわけではない、ケントはそう信じていた。それは彼女の作る料理が相変わらず美味しいからだ。自分に興味がなくなったのならば必ず手抜きになるに違いない。
だから彼は今の状況にそれほど危機感は感じてはいなかった。自分に原因があるのかも知れないが、彼に思い当たる節はなかった。いつも通り彼女と接しているつもりだった。
次の週、同じ曜日にカリンはケントの部屋に来た。
「おい、これ。忘れていたやつ」
カリンが部屋に入ってくるとすぐにケントは髪留めを渡した。
「あ、ごめん。ありがとう」
「気付かなかったのか?」
「家に帰ってから気付いた」
そう言うと、カリンは無造作にそれをハンドバッグに入れた。余り愛着がなさそうだった。
「ご飯作るね」
「…何作るの?」
今日の献立はカリンに任せていた。
「麻婆豆腐。今日ちょっと寒いでしょ」
「いいね。頼むよ」
カリンは笑って、キッチンへと向かった。いつもの彼女、いつもの笑顔だ。
しかし、食事が終わり皿を洗うと、この日もカリンは帰ると言い出した。
「もうちょっと居ろよ」
「ゴメン、だから今はダメなの」
「仕事か?」
「そう。もう少しで落ち着くと思うから、もうちょっと待ってて」
ケントは不満な顔を見せる。
「だからゴメンって」
そう言って、カリンは嬉しそうに笑う。そして素早くハンドバッグを取って部屋を出て行った。ケントはもう見送らなかった。
カリンが去ってしばらくして、ケントはトイレに入った。すると洗面台に指輪が置いてあることに気付いた。
「また?」
それはシンプルな金色の指輪だった。特徴があるとすれば、リングの幅が広めだという事ぐらいか。確かに今日付けていた。右手の人差し指だったと思う。
これだけ頻繁に、しかも毎回種類の違うアクセサリーを忘れていくのは余りにも違和感がある。ケントは考えようとしたが、次に来た時に聞けば良いと思って止めた。最近妙に自分と一緒にいたがらない彼女に対する不満もあった。
「俺がなんかしたか?」
ケントはしばし指輪を眺めてから、ぎゅっと握りしめた。
カリンは次の週も来た。同じ曜日だった。ケントが忘れて行った指輪を渡すと、
「ああ、ごめんね」
冷めた返事だった。
「何度も忘れていくなよ」
「だからゴメンって。ケントも教えてくれればいいじゃない。電話でもメールでも」
カリンのその言葉には棘があった。確かにケントはこの事を伝えなかった。面倒臭かったのだ。ケントはこれ以上もめたくなかったのでこの話題を続けることを止めて、腰を下ろして付けていたテレビをじっと見つめた。カリンはキッチンへと向かった。
カリンは豚の生姜焼きを作った。カリンも気まずいと思ったのか備え付けのサラダをいつもより丁寧に作っていた。そしていつもの様に彼女の料理は美味しかった。ケントの気持ちはほぐれた。
そしてカリンは先週までと同様、食事を終えたら帰ると言った。ケントはこの日は不満を言わなかった。二人の間にはまだ完全にわだかまりが消えてはいなかったからで、この日はそうしてくれた方がケントにはありがたかった。
「じゃあね」
カリンがそう言うと、ケントは無言でうなずいた。カリンはどこか寂しそうな表情だった。彼女が部屋を出て行った後に、テーブルの上にイヤリングが置いてあることに気付いた。彼女が今日付けて来た貝殻のイヤリングだった。それを見たケントはある違和感を覚えた。しかし、まずそれを渡すことを考えた彼はイヤリングを持って立ち上がった。
「おい、カリン」
カリンは靴を履いたところだった。
「イヤリング、忘れてるぞ。何なんだよ、毎回」
ケントが怒った口調で言うと、カリンは無言で彼を見つめた。
「なんだよ。ほら持って行けよ」
ケントは手のひらを開いて、持っていたイヤリングを彼女に差し出した。だがカリンはじっとケントを見つめたままで動かない。
「どうしたんだよ?ほら、早く」
なおもカリンは動かない。
「早く、受け取れよ」
その次の瞬間、カリンは持っていたハンドバッグでケントの胸の辺りを思い切り叩いた。
「おいっ!何すんだよ」
カリンはその言葉を無視して、何度もハンドバッグでケントを叩いた。やがてカリンは静まった。ケントが彼女を見ると、カリンは目から涙をボロボロこぼしていた。
「おい…、どうしたんだよ」
ケントの言葉は届いていないようで、カリンはそのまま外に出て、走って行ってしまった。ケントは呆気にとられて彼女を追いかけることが出来なかった。今まであんなに激高した彼女を見たことがなかったからだ。それになんであんなに怒っていたのかが全く分からなかった。ハンドバッグをぶつけられた部分が痛む。
少しして、ケントはイヤリングを握りしめていたことに気付いた。手のひらを開いてイヤリングを見つめた。そして彼はこれを最初に見た時に感じた違和感を思い出した。しばらくその貝殻のイヤリングを見つめていると、
「これ…、もしかして」
彼は居間へ走った。そして部屋に置かれた本棚から自分が最も大事にしている一冊の本を取り出す。本を開くと、すぐにあるページのところが開いた。そこには一枚の写真が挟まっていた。
その写真は一組の男女が自撮りした写真だった。男はケントだが、女性の方はカリンではなかった。その女性はケントの肩に優しく右手を乗せている。その人差し指には金色の指輪、そして側頭部には乳白色の二つの髪留め、ネックレスもしている。そしてデザインこそ多少違うが、耳には貝殻の…。
ケントは崩れ落ちた。カリンはこの写真を見たのだ。写真に写る女性は彼の以前の恋人。同じ大学に通い、二人は偶然にも同郷で、それが二人を一層強く惹き合った。卒業後もこの関係が続くと信じて疑わなかったが、彼女は生まれ育った土地に帰って行った。一人娘で父親の顔を知らない彼女は、自分を育ててくれて、大学まで通わせてくれた母親をいつまでも一人には出来ない、そう言った。ケントは付いて行くと言えなかった。もう地元には戻りたくなかった。
この写真はカリンと付き合うまで部屋に飾っていたもの。どうしても捨てることが出来なかった。
ケントは携帯をとってカリンに電話をしようと思ったが、やめた。彼女があれだけ怒ったのは以前の彼女との写真を大切に取って置いたことだけでなく、あれだけヒントを与えても写真の事を思い出さない中途半端さ加減に対してもだろう。もう二人の仲は戻らない、彼は悟った。カリンとは写真の頃のような気持ちにならないことを、彼はもう気付いていた。
綺麗に洗われて水滴の付いた皿が並べられているキッチンは、静かな空気を漂わせている。
完
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