128人が本棚に入れています
本棚に追加
「東條さん! 東條さーん! ここです、東條さん! 東條さーん!」
人の行き交う歩道のド真ん中から大声で名を呼び、こちらに向かって腕をブンブン振りまくっている奴が前方にいた。
声に気付いて顔を上げると、すれ違う人々が連鎖して次々と彼を振り返り、そして呼ばれている相手を探しだす。
「!!」
人間というものは、窮地に追い込まれるとこんなにも凄まじい脚力を発揮するのか。
自分の判断は素早かった。俺は咄嗟に彼の元へと駆け寄り後ろから羽交い締めにすると、騒々しいその口を手で塞ぎ、それ以上の発声を抑止した。
「ちょっ、静かにしないかキミ!」
「もがっ?」
周囲の視線は既にこちらへと向けられていた。
聞こえてきた声の中には『東條』の名前にピンときた者もいるようだ。
(おいおいおいおい! こいつの行動は、どうしてこうも想像の斜め上を行くんだよ……!)
そのまま彼を引き摺り、建物の陰に身を隠した。
これ以上目立っては、わざわざ気配を消した意味が完全に無へと帰る。
前後左右に人がいないことを確認してから、漸く拘束を解いて大きく息を吐いた。当の本人は状況が読めていないとでも言いたげな顔をしている。
「まったく、人の往来がある場所で名前を連呼するなんて何を考えているんだ」
一度キャップを取り、片手でざっくり髪を梳いた。
「俺はキミと違ってそこそこ売れているんだから、これじゃ変装の意味がないだろう」
込み上がる怒りを最小限に抑え込み、彼に対する恨み言を口にした。
実際はもう少し強くイラついたし文句を言ってやりたいが、口にしたところで恐らく彼には伝わらないだろう。
「あっ、す、すみません。東條さんの姿が見えたらオレ……、嬉しくて、つい……」
完全にイメージではあるが、彼の頭と尻から生えた耳と尻尾がしゅん……と垂れ下がったように見えた。
「まあ。キミも仕事がもらえるようになれば、いずれ分かるだろうさ」
さて、行くか。
手にしたキャップを被り直すと、それ以上何かを言うことを諦めて元来た道へ引き返す。
視線の先にタクシーの案内板が目に入り、ついてきた彼に先に乗るよう促して自宅マンションへと向かうことにした。
最初のコメントを投稿しよう!