研究所

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「さ、もう今日はお休みなさい。もう夜も遅いんだから」 「はあい」   ローズは気怠げに返事をすると、一人長い通路を通り抜け、見慣れた白い部屋の前に立った。ちょうど心臓の高さにある平たいスピーカーから、滑らかな合成音声が流れる。 「機械に、左腕の計測器をかざしてください」  言われたとおりに左手をパネルにかざすと、軽い音と共に扉が開いた。  室内に足を踏み入れた途端、ぱっと電気がついた。背後で音もなく扉が閉まる。   白と黒、薄いグレーに統一された、質素な部屋が広がっていた。背の低い木彫りの椅子が一脚、食卓の前に置かれていて、最も奥にある窓からの月光を淡く浴びている。  右の方には白い壁がのっぺりと構えており、景色の写真を写したカレンダーを除いては何も掛けられていない。  小ぶりな二人用のこぢんまりとしたソファには、両手に抱えるほどの大きさのウサギのぬいぐるみがあった。それだけが、この部屋の持ち主の性別を物語っている。  ローズに与えられた個室────いわゆる、彼女のプライベートルームだ。  奥の方には大きなベッドと年代物のクローゼットが設置されており、入口に近い右手前の方には、一人で入るには少々広い風呂がついている。トイレや洗面所も完備されていた。  全体的に、単調な眺めだ。カリンをはじめとする研究者たちに頼めば、もう少しましな調度品を揃えることはできるだろうが、ローズはそうすることを好まなかった。  入り口でスリッパを脱ぎ、白い部屋履きに履き替える。部屋の奥に歩を進め、窓の側に立った。  透明なガラスの向こうには、緑に覆われた森林が一望できた。高地にあるせいか、若干木々を見下ろすような景色になっている。山奥に位置するこの研究所からは、どの窓を覗いても豊かな自然しか見えない。  一方で、ガラスに映った自分の姿はなんともつまらなさげであった。  黒い瞳が、なんの感情も移さずにぼんやりと窓の向こうを眺めている。後ろで軽く結わえた黒髪が肩にだらしなく垂れ、白い簡易的なワンピースは、入院着のように病院くさい。  ローズは息を吐くと、緩慢な動作でカーテンを閉めた。そうしてベッドの方へ戻り、柔らかい布団に倒れ込んだ。 「学者になってほしいわけじゃない、か」  カリンが言っていた言葉を呟く。  彼女の言う通り、この場所における学者、しょせん研究者というのは、世の偏見と軽蔑を受け続ける稼業だ。人を救うために働いているというのに、常に誰かからの批判を一身に浴び続ける不条理な連中。  誰からも顧みられず、結果を出せなければ認められることさえない必要悪。それがカリンの職業であり、ローズが日々対面している大人たちの生きていくすべだった。  だが、研究者という人物を知っている彼女には、わかっていた。  研究者とは悪い人ではない。かといって、彼らを批判する世間が間違っている訳でもない。ただ、この世には明確な悪も正義もないだけだ。本当に奸智をはたらく者は、そうそう表舞台に現れない。  カリンの言う通り、将来研究者になることを志すことはないだろう。けれど、このまま彼らが大きななにかに虐げられているのを黙って見ているのは、良い心地はしないのだ。  ローズは、ゆるい視線を横に向けた。髪を後ろで一つにまとめた、花束を模した髪飾りが、視界の端に写りこむ。装飾用に乾燥したベニキノミがついたその装飾具は、ローズのお気に入りだった。  自分が、どうしてここにいるのか、何のために生かされているのか。それを忘れないために、常に身につけるようにしているその髪飾りは、彼女にとっていわばお守りのようなものだった。  ────あなたがこんな実験なんかにつきあわされている元凶だというのに、よりによってそれにしなくても。カリンはそう言って目を潤ませたが、ローズはこの果実を嫌う気持ちはそこまでなかった。  彼らだって、別に憎まれるために生まれたわけではないのだ。ベニキノミという名前も、その意味も、全て人間が決めた。彼ら自身に恨まれるいわれはない。  そんなことを思いながら、少女は次第に眠りに落ちていった。
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