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「あれ? 定期券がない」
毎朝、会社まで往復するためのICカード式の定期券を失くした。黒い色の単色で目立たないコートのポケットに普段から入れている。営業マンということもあり外回りの多い仕事に就いているからか、定期券を使うことが多いのだ。もちろん、ICカードなので会社の往復以外にも料金をチャージして他社に向かうこともある。
冬になれば着慣れたコートに入れているはずのモノがなくなると焦った。普段の場所にある安心感から、気持ちの緩みが出たのだろう。一体、どこに忘れていったのだろうか。
そうコートの中を何度も手を差し込んでは焦りが増す。時間は、きっちりとするタイプだけれども、どうも早起きだけは大の苦手だった。
普段から出社時間に合わせて動いたため、電車の混み具合も関係するのに会社に遅刻してしまわないかと冬なのに嫌な汗をかいてしまう。
手持ちの鞄の中身をあさったが、もちろん定期券らしきものなどなかった。
思い出せ、俺。どこに置いてきたんだ。あそこか? いや、昨日は立ち寄ってないはずないだけどなぁ・・・・・・。
あそことは、行きつけの居酒屋ことだ。取引先との承諾が上手くいったり、ノルマなどのストレスを発散するための酒場。酒を片手に、焼き鳥を頬張る。
その居酒屋に昨日は立ち寄っていないとなると、そのまま帰宅したはずだ。酒で記憶が飛ぶことのない昨日の記憶は鮮明に思い出せる。
なのに唯一の定期券の居場所だけが分からない。
この際、諦めて切符を買った方が早いとふんだ俺は、切符を購入したのち改札口へと向かった。今日の取引先は1社。仕事上での交通費は会社から支給されるから、そこで困ることはない。
満員電車に揺られながら何度も思い浮かぶ、あのICカードには交通費の三か月分。かなり大きな痛手を背負って会社に向かう。
朝礼が始まる前にはなんとか出社することができた。時計を見るとまだ九時五十分。あと十〇分で朝礼とともに仕事が始まる。
「早坂さん、おはようございます」
「おはようございます、宮村さん」
営業部のドアを開けると、最初に声をかけてくれたのは事務の宮村さんだった。カジュアルなオフィス服を着こなして、少し長めのスカートを着ていた。
今日も可愛らしい声とふんわりとした見た目だ。
暖房が効いた営業部の暖かさになごみながら、コートを脱いだ。コートの中はちょっと高めのきっちりとした落ち着いた青めのスーツ。上下セットで特注品だ。身長が一八〇センチ、顔より小さめの割に肩幅が広い。けれども上半身の方が長めなのだ。
そのことからスーツ専門店で体格に合うものが中々見つからなかった。店員に頼んで体のサイズなど測りオーダーメイドというものをしてもらった。
我ながら高い買い物したので、清潔さも求められる営業マンでありながらも中々新しいスーツに変えることが難しい。コートもなで肩の体格に調整して生地のシルエットより綺麗に見せるために買ったお気に入りの洋服だ。
「八木部長、おはようございます!!」
「早坂くん、おはよう」
担当のデスクにある椅子にコートをかけたあと、真っ先に八木部長に挨拶を交わした。
パソコンの画面を見ていた八木部長は、こちらに気付くとにっこりとした穏やかな表情で笑う。
「早坂くんは今日も元気がいいようで何よりだよ。前回の他社との契約も取ってきてくれたみたいだね。今回の新しい会社との面談も頼んだよ」
「はい!! 任せてください」
早速、八木部長の耳にも前回の契約について上手くいったが伝わったようで褒められた。定年間近の八木部長は柔らかなめのスーツを身にまとい、ゆったりとした口調で話す。
ノルマを課せられている自分にとって実績をまた一つ増えたという嬉しさを顔に出さないよう気を付けた。最後に八木部長に軽く一礼をする。
そのまま立ち去ろうとした時、「おや?」と八木部長が声を上げた。
なんだろう。
そう思い始めた俺は、八木部長に背を向けた身体を振り返った。
椅子から立ち上がり、地面に身体を下した八木部長が何かを持っていた。こちらを見るなり、立っている俺との高さを感じて、八木部長は立ち上がる。
その何かを俺に渡しながらこう言った。
『早坂くん、定期券。落ちたよ』と。
定期券。八木部長から受け取って確認すると確かに俺の最寄り駅から会社までの記載と名前がそこには書いてあった。
あっ、と俺が声を上げる前に八木部長が「定期券は大事なものだから、ポケットに入れとくと危ないよ」と助言された。
「すみません、定期券、ありがとうございます」
八木部長に対して謝罪とお礼を言う。ポケットに入れとくと、という八木部長の言葉にスーツのポケットを確認した。コートのポケットの他にスーツのポケット。それがあった、と頷いた。
帰社する際に、最寄り駅へと着いた時には改札口でICカードをピッと鳴らして出口に向かう。手を入れたポケットはコートではなくスーツだったことに今気づいたのだ。
失くすはずのないと思っていた定期券は、忘れものとして解釈していた俺とは違うところで舞い戻ってきた。一礼した時にコートのポケットから定期券が手元にある嬉しさで安堵する。
冷や汗をかいた俺は、大事そうに定期券を鞄の中に仕舞うのだった。
完
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