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朝、傷の痛みで目が覚めて、昨日のあれは夢ではなかったんだと改めて実感する僕。たしかに怖い体験だったけれど、今はそれ以上にメアリーに対して申し訳なかったという気持ちの方が強い。
彼女は僕のことを信じて、苦しみを打ち明けてくれていたんだ。なのに僕の方はそれを妄想と決めつけ、頭ごなしに否定してしまった。あの時、彼女はどれほど悲しい、寂しい気持ちでいたことだろう。
『物事を判断する時は、既存の先入観に囚われず、まず自分自身の目で確かめること』
それが僕の尊敬する人物、ファーブルの信条だったのに・・・。しょせん僕は彼から何ひとつ学んではいなかったという事か。
とにかく彼女に一言謝りたかった。矢も盾もたまらず、僕は授業が終わるとすぐに校舎を飛び出し、あの高台へ続く坂を上った。
めずらしく、その日は玄関ホールのピアノが鳴っていた。弾いているのは、おそらくシエリさんだ。『別れの曲』と呼ばれる、ショパンの有名な曲だった。
曲の冒頭は包み込むように優しく、サビの部分は鍵盤を叩きつけるように。その静かさと激しさの対極は、まさに彼女の人柄、あるいは生き方そのものだ。
曲は終盤にさしかかり、また元の優しい旋律に戻った。・・・誰を思って弾いているのだろう。 そのままジッと聞き入って、最後の一音の余韻まで完全に消えてから、僕はインターホンのボタンを押した。
「本当にごめんね。でもメアリーと会わせてあげる事はできないわ」
シエリさんは館の大きな扉から出てくるなり申し訳なさそうに言った。
「メアリー、具合が悪いんですか?」
「ううん、体調は落ち着いているわ。でも精神的にショックを受けてるの。血の衝動を抑えきれず、あなたを傷つけてしまったという事実をまだ受け入れられていないのよ」
シエリさんは慌てて付け加えた。
「ごめんね、あなたの方がよほど痛くて怖い思いをしたのに・・・」
「あんなの何とも思ってない!メアリーにそう伝えてください!」
「ありがとう。伝えるわ」
「それから、元気になったら、またたくさん遊ぼうって」
「・・・・・・」
シエリさんからは何の返事もなかった。少しの沈黙があって、その返事の代わりにこんな話を始めた。
「わたしね、メアリーはきっと血を欲しがることはないと思っていたの。この歳まで大丈夫だったのだからって。でも、それはただの願望に過ぎなかったのね」
そういえばメアリーのお父さんもそうなのだと彼女が言っていた。血を欲しがる事も日光過敏症と同じく遺伝性の病気なのだろうか。
「あなたと出会ってから、メアリー、心から笑えるようになったわ。私も、もしかしたらこの子にも明るい未来があるかもって、短い夢を見ることができた。本当にありがとうね、普通の女の子として接してくれて」
シエリさんは何故、今こんなことを言うのだろう?これではまるでお別れの言葉みたいじゃないか。僕は不安になって聞かずにはいられなかった。
「僕、またメアリーに会えますよね?」
「・・・辛いけどできないわ。会えばまた昨日のような事が起きる。あの子はあなたの血の味を覚えてしまったから」
「そんなこと構うもんか!僕は平気だから!だから、メアリーと会わせて!」
「・・・・・・」返事はない。
「シエリさん!」
「ごめんなさい・・・」
たった一言そう言って俯いたきり彼女は、どんなに僕が呼びかけても、二度とその綺麗な眼差しを向けてくれる事はなかった。
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