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日の出前、東に見える連峰は空とのコントラストを強めた。薄ピンク色のグラデーションが輪郭線から放たれる。滲みのない淡い光の中で、側面を照らされた羊雲がくっきりと浮かび上がって見えた。
秋の朝空がこんなにも気持ちの良い景色だなんて知らなかった。早起きをした者だけの特権なんだと思った。朝が弱い僕には無縁の風景だから、これは夢なんだと悟った。そうだと分かれば、存分に味わおうではないかと散歩を始めた。
商店街まで来ると、甲高く可愛らしい声が僕を背後から呼び止めた。
「ねえ、君の忘れ物だよね、これ」
振り向くと、群青色をした大きな丸い瞳が僕を見上げた。期待する答えが返ってくるのかを不安げに待っている少女は、小さく口を開け捨て猫みたいな瞳で僕を見つめている。
尻を隠すほど長い髪の毛は、下のほうがふわりと膨らむ徳利型で、檸檬色をしていた。まるで不思議の国のアリスだ。
服や顔は酷く汚れている。黒っぽいシミだらけだし、少し生臭い。親が精肉所でも営んでいて、手伝いの途中に抜けて来たのだろうか。何にしても——。
(どうしよう、外国人だ。フランス語? それとも英語か?)
「へ、ヘロォ~。アイドンノォ」
英語は中学で躓いたんだった。目の前の少女は少し首を傾げた。しまった、フランス人だったか?
「ボ、ボンジュゥ~ル?」
あぁ、フランス語はそもそも習った事がなかった。少女は眉根を寄せた。やばい、日本語しか分からない。すると、少し苛立ちのある口調で、同じ質問を訊かれた。
「あのぉ、これって、君の忘れ物だよね?」
「え、あ、日本語?」
「君、もしかして、日本語分からないの?」慌てる僕に、わざとらしく訊いてきた。
「はぁ? 分かるし。僕は日本人だし(だいたい、なんでタメなんだよ。どう見ても僕のほうが年上だよな)」
「じゃあ、早く答えてよ。これ、君の忘れ物だよね?」
僕のほうに向けて、ずっと差し出していた右の掌に、それは乗っていた。彼女の顔から数十センチほど手前のモノへと、僕の視点が移動する。表面のテカリが周囲の景色を写しぬめりがあると分かる。細い管が数本生えていて、赤く、トクトクと表面が揺れていた。生肉? の様に見えるけど、動いているから生き物なのか? もしそうなら、グロテスクな見た目の生物だ。もはや深海魚なのか?
「えっと、たぶん違うと思うよ。初めて見るし、こんな気持ち悪……いや、変わった見た目の生き物は知らないな」
「う~ん。じゃあ、質問を変えるね。これは君の忘れ物なんだ。覚えてない?」
覚えていないかと言われても……。全く身に覚えがない。誰かと間違えているのか?
「あのね、お嬢ちゃんとは初対面だし、それも僕のじゃない」
「そう……」
少女は俯いてしまった。伸ばしていた右手は、ゆっくりと下がって行く。どうしよう、凄く残念そうだ。嘘でも貰っておいたほうが良かったのか。
「ちなみにだけど、それ、何?」
「心臓」
良く聞き取れなかった。と言うより、言葉が指す意味と状況がマッチしていなさ過ぎて脳内で結び付かなかった。
「シンゾー? って何だっけ?」
「知らないの、心臓? 全身に血液を巡らせるポンプじゃん」
言葉の意味を理解すると、背筋が凍り付き、全身が身震いした。少女の掌の上に乗っている物が心臓なら、その持ち主はどうなってしまったのか。なぜ心臓なんか持ち歩いているのか。どうしてそれは単体で動いているのか。一体この子は。
「何者なんだ?」——。
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