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「お客さん、忘れ物ですよ」  と声をかけられる。忘れ物だというが、私はどこかの店に入った覚えはない。何かのいたずらかとおもい、振り返るが、そこには誰もいない。いたずらにしても、随分と気味が悪い。そうは思いながら、私は少し早足になりながらも帰路についた。  家に帰りついてから、ずっと先ほどの出来事について考えていた。きっといたずらだと思っているのだが、如何にも引っかかる。特に「忘れ物」という言葉。私はどこかに何かを忘れるようなことをしたのだろうかと、考え出してしまった。なざか、その言葉に奇妙な不安感と焦燥感、そして一種の恐怖を感じた。  私は、その「忘れ物」に心当たりがあるのだ。だが、それは誰も知らないはずだし、知られてはいけないものである。だからこそ、それを知っているかもしれない姿のない相手にこんなにも怯えているのだ。それに、私は、”あれ”を忘れたわけのではない。捨てたのだ。しかし、もしかすれば捨てた場所に何かを落としてしまったのかもしれない。それを「忘れ物」と言っているのか、だとしたら、その人物は”あれ”を見たのだろうか。それならば、放っておくわけにはいかない。きっといたずらだとは思うが、やはり万が一のことを考えて、確認に行った方がいいだろう。”あれ”は私の汚点だ。決して、見られてはいけない。  あれから一日がたった。私は、またあの道を歩いている。いったいどこの誰だか知らないが、どこからでも声をかけてくればいい。昨日とは違い、万が一の覚悟は決めているのだ。 「お客さん、忘れ物ですよ」  声が聞こえる。昨日と同じ声だ。しかし、昨日よりも声が近づいているような気がする。私は振り返る。けれども、そこには昨日と同じくなにもありはしない。私は周囲をきょろきょろと見回した。はたから見れば、随分と滑稽極まりないのかもしれないが、そんなことを気にしているわけにはいかないのだ。 「お客さん、こっち、こっちですよ。お忘れ物はこっちですよ」  声が語りかけてきた。完全に私を呼んでいる。私は、ふらりとその声が聞こえてくる方向へ歩を進めた。 「ああ、そっちじゃぁございませんよ。ほうら、こっちです」  声のするほうへ向かったと思っていたが、声は少しずれたところから響いてくる。未だ、誰かのいたずらであるという可能性は捨てきれないが、如何にもおかしい。だって、声が聞こえてくる場所には誰もいない。誰かが隠れられる場所だってないのだ。なら、いったいどうやって、私を誘導しているのだ。やはり、気味が悪い。 「そうです、そうです。そのままこちらへ来てくださいな」  私が声の方向へ向けば、声は少し嬉しそうにそう言った。まさしく私は声に誘導されているのだろう。いつしか、私の足は自分の意志に関係なく、動き出したではないか。ああ、これはいたずらなんかじゃあない。きっと恐ろしい物の怪の仕業だ。なんてことだ、私は奴の思惑にまんまとはまってしまったというのか。 「物の怪だなんて……人聞きの悪いこと言わないでくださいよォ」  先ほどから聞こえていた声とは違う声がする。ああ、やはり人ならざるものが私のことを弄んでいるのだ! この場から逃げ出したいのに、足が言うことを聞かない。やめろ、離してくれ! 私はおまえたちのことは知らないぞ! 「そんなにさみしいこと言わないでおくれよ、お嬢ちゃん。確かにあたしたちはぁ、あんたのこと、しりゃしないけど……」  やめろ、離せ! 私はおまえたちのような汚らわしい娼婦になぞ、かまっていられないのだ! 私の人生は輝かしく、きらびやかなものになるのだから! 「あんれまあ……、これじゃあ、旦那のことも全然気にしてなさそうねえ」 「ていうか、この娘、病気なんじゃあないの? 聞いてた話よりも随分とイカれちまってるように見えるよ?」  物の怪たちが私のことを好き放題言ってくる。しかし、私はそんなこと気にしていられなかった。この先に何が待っているのか、頭が、脳がそれを理解することに拒否反応を示している。頭が割れるように痛い。違う。私は何も間違ったことなんてしていない。あんな奴……、あんな奴、ああなってしまった方がお似合いだったのだ。  私は両手で頭を抱えるようにして、痛みに耐えようとする。そうしている間にも、足はこの先に待ち構えているもののもとへ、向かおうと一歩、一歩と確かに進んでいた。私の足は藪の中をかき分けて、先ほどまでいたはずの街からは遠く離れた山の中を進む。  もういや、帰らせて。私は、こんな山の中に「忘れ物」などしていない。”あれ”は忘れたんじゃない。私の意志で、私自らの手で、この山の奥深くに捨て去ったもの。今更ほじくり返されても、いらない。 「君は勘違いをしているんじゃないのか? 君は確かに、この山に『忘れ物』をしているのだよ」  耳元で見知らぬ男の声が響く。ゆっくりと首をそちらに向ければ、そこにいたのは随分とこの場所には似つかわしくない黒い、黒い男がいた。男はその涼しげな目をすっと細め、まるで私をエスコートでもするかのように、山の奥へと誘っていく。 「さあ、ついたぞ。ここに、君の『忘れ物』がある。……ほぅら、よぉくその穴の中を覗いてごらん」  私は嫌だった。この穴の中にあるものを私は知っている。なのに、身体は私のいうことなど知らんふりをして、その穴に身を乗り出して、覗いてしまう。私はすっぽりと頭を穴の中へと突っ込んでしまった。そうすれば、穴の中から突如として生白い手が伸びてきて、私の長い髪をがっしりとつかんできたのだ。喉から声にならない悲鳴がこぼれ落ちる。私は必死になってそばにいるはずの黒い男へと、助けを求める。しかし、男は全く助けようとは思っていないような声色で言葉を紡ぐ。 「なにを怯えている? ”これ”こそ君がこの場所に忘れていったものだろう?」  私のことをぐいぐいと引っ張る腕は、決して力を緩めることはしない。ああ、このままでは穴の中へと引きずり込まれてしまう。いやだ、このどうしようもない男と共に生き埋めになるなど、もってのほかだ。 「見た目に反して、存外と強情だな。いい加減認め給え。その男は、君の亭主だろう? 君は彼の財産を得るためにここへ埋めてしまったのだろう? なに、否定などしたところで意味はない。僕は彼からすべてを聞いているのだから」  男のその声が耳に届くと同時に、私の髪を引っ張る腕を持つ主の顔があらわになる。そこにあったのは、私が”自らの手で殺めた”夫の顔が見えた。その顔は、私を恨んでいるかのような、そんな顔をしているように見えた。 「安心して穴の中へ落ち給え。彼は決して君を恨んではいない。ただ、君とともにこの場所で眠りたいだけだそうだ」  男の声が耳元でする。なぜこんなことになっているのか? 私はこの男のことなどすっかり忘れて、輝かしい人生を送るはずだったのに。 「……どうやら、無事に思い出したようだな。君がここへ忘れていったものを」  男のその声が聞こえたと同時に、私の身体はごろりと穴の中へ、闇の中へと転がり落ちていった。
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