社長、あなたは私のなんですか?

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少し時を遡り、私、鳴川凜々花がこの会社の社長秘書になって、ちょうど一週間が過ぎた頃ーーー 「鳴川さん」 朝、出勤し、事務所のデスクで書類を片付けていたら、事務の北山弥生が話しかけてきた。 入社してわかったことだが、秘書として今回採用されたのは私ひとりのようで、デスクは事務職の一角に配置されている。 「はい」 「今日って忙しい?いつでもいいから、もし手が空くようなら少し事務の仕事を手伝ってほしいんだけど」 「あ、はい。全然大丈夫です。午前中は来客で社長に同行しますので、午後からなら……」 スケジュールを確認しながらそう言うと、北山がじーっと私を見ていることに気がついた。 一応会社の先輩だ、無下にするわけにいかない。 「…なんですか?」 「秘書の仕事には慣れた?ーーすごいよね、どんな経緯で入社したのか知らないけど、あの社長に秘書がつくなんて思ってなかったから。皆、びっくりしてるのよ」 「そうですね…おかげさまで」 にっこりと言われたので、にっこりと返した。 こんなのは、初日に社長を紹介されたときから想定内だ。 私の存在が気にくわないんだろう。中途採用の未経験のくせに、社長の側近みたいな立場になった女。実際、北山以外からも入社初日からちょくちょく陰口は耳に入ってきていた。 陰口に加えて、琥珀社長に好意を抱いている女子社員の噂なんかも聞く。 まともな会社で働き始めたのは初めてだったが、仕事以外の人間関係や男女関係なんかは、学生の頃からなにも変わらないんだな、と思ったのが素直な感想だ。 大人の場合はそこに、金と性がついてくるから、多少厄介にはなるけれど。 「話はそれだけですか?北山さん」 「えっ?あぁ……うん」 「では、これから社長室に行きますので、失礼します。戻ってきたらお手伝いします」 軽く頭を下げて、私はデスクを離れた。 北山は私が離れるとすぐに同じ事務の社員のもとへ駆け寄っていき、こそこそ話をしている。 ……中学生かよ。 私はあきれて心の中で溜め息をつき、事務所を出た。 ***** ポーン、と音がなりエレベーターが開き、私は廊下を歩きだした。社長室が見えたところで、ガチャ、とドアが開いた。 「あ、社長。おはようございます」 出てきたのは琥珀社長だった。 私に気がつくと社長は普段かけていないと思われるメガネを触りながら、おはようと返してきた。私はその違和感について、社長に聞く。 「?今日はメガネなんですか?いつもはしてませんよね」 「あぁ、うん。めったに会社ではしないんだけどね。今日、朝、どうしてもコンタクトが入らなくて…なんか左目がね、痛くてさ。傷でもついたかな~」 まいったよ、と言う社長を見て私は背筋をピンとした。 ーーーこれは、もしかして。 もしかしたら、チャンスかもしれない。 口元を少し緩めながら、私は社長に近づいた。 そして社長のすぐ目の前に立って、書類を抱え込み、下から社長を覗き込むように顔を近づけた。 「…鳴川さん?」 「社長、痛いのは左目ですよね。ちょっと……赤くなってるような気がします」 「え?ほんと?」 「はい…ちょっと、かがんでもらえますか?」 私は、失礼します、と言って社長の左肩に手を置き、かがむよう促すと、社長はつられて上半身が少し前に出た。 ーーー至近距離までくるとわかる、高そうな香水の匂い。 嫌にならないくらいの微かな香りを感じながら、私は社長の左目を確認するようにメガネのレンズ越しに覗き込む。 ーーーどうやって、この男を落としたらいいだろう。 私は、社長の黒目に小さく移る自分を見ながら考える。 こんなに至近距離にいるのに、社長はまったく動じていない。私を見て、なんの疑いもない様子で立っている。 ーーーいや、少しは動揺しろよ。仮にも自分より若くて美人で有能…になる予定の新人秘書が目の前にいるんだぞ。 私は心の中で舌打ちする。正直、美人で有能になると思われているかはわからない、だが、それにしても、だ。 男にこれだけ接近して、なんの反応もされないのは初めてで、逆に屈辱的に感じた。 私がそんなことを考えていると、社長は何度か瞬きして、口を開いた。 「鳴川さん、どう?コンタクトがはめられないから、実は自分で見てもよく見えなかったんだ」 「あ………はい。右目と比べてもやっぱり赤いです。充血ですかね、眼科に行かれた方がいいかもしれません」 「あ、やっぱそうかな~。今日早めに上がれたら、夜に行ってこようかなぁ」 「……」 私の至近距離作戦もどこへやら。 にこっと微笑み、社長は私から離れていく。 私がその様子を目で追っても、まったく気にしていない。 「…社長、今、どこかへ行かれる予定でしたか?今日のスケジュール確認をしようと思ったのですが」 「あぁ、うん。洗面台でもう一回コンタクトはめてみようと思ったんだけど……やめておくよ。きみに見てもらえたから。ありがとう」 「そう、ですか」 だから、中入って~と言われたので、私は社長に続いて社長室に入った。 私はドアの前で立ち止まり、手元の書類に目を通しながら今日の予定を伝えていった。 社長は、うんうん、といいながらそれを聞いている。特に質問もしてこない。 私が入社するまでは、スケジュール管理もアポ取りも、全部自分でやっていたらしい。 まだ入社して一週間の秘書に、全部の仕事を委ねてはいないだろう。 だって私はーーー琥珀社長の父、桐山亮太郎からの指示で、社長秘書になった存在にすぎないのだから。 ただひとつ"条件"を出されて。 「ーー以上です」 私は書類から目をあげて、社長を見た。 すると、社長は社長のデスクにもたれかかりながらまた、ありがとうと言った。 初めて見るメガネ姿も、さすがはイケメンだ。 なにをしてもどんな格好でも様になっている。 このあと、女子社員がこの姿見たら、また一部で黄色い悲鳴が上がりそうだな、めったに眼鏡しないらしいし……とくだらないことを考えていたら、社長が私の名前を呼んだ。 「鳴川さん」 「!はい」 やば。意識が変な方に行きかけていた。 仕事は仕事でお給料はもらうわけだし、ここが会社である以上ちゃんとしなければ…… 私は少し緩んだ背筋をピシッと伸ばした。 「ちょっとこっちきて」 「え?…はい」 おいでおいで~と右手をひらひらさせる社長をみながら、私は数歩前に出た。 なんだこいつ、急に変なことしやがって。 たぶん、顔には出ていないと思うけど、少し警戒心が私の中に浮かぶ。 社長との距離を2メートルほど残して立ち止まると、社長はメガネ越しに目線を合わせてきた。 「鳴川さんはさ、俺の父親に言われてここにきたんだよね?」 「!」 ーーその話か。 入社してからいつ話があるかとは思っていたが、このタイミングで…… もうすぐに始業時間になるってときにする話ではないが、切り出されたら仕方ない。 私は、そうです、と返した。 「ちょうどこの一週間、仕事が立て込んでバタバタしててきみが来てからなかなかちゃんと話す時間を取れなかったこと、ごめんね。大体聞いてるよ。きみのお母さんが病気で、金銭的なことを俺の父親が援助してることとかね」 「……すみません、その通りです。でもあの社長、この話は話すと長いので、今はちょっと…」 私はちらっと時計を見た。まもなく始業時間だ。 今日の社長は11時からアポがあるが、その前に朝礼に出るのが常だ。 社長も時計見ると、あーと声に出したあと、ちょっと待ってねと私に言った。 そして、デスクの上の電話を取り、受話器を持ち上げた。 「あ、桐山だけど。おはよう。あのさ、今日の朝礼は無しにしてくれる?…うん、ちょっと急用できて俺行けないから。うん、うん、悪いね、よろしく~」 どうやら別フロアに内線をしたらしい社長は、そんな会話をして、電話を切った。 目を丸くして社長を見る私に、社長はにっこり笑いながら問いかける。 「これならいいでしょ?11時のアポまで時間できたよね」 「……私、大人が仕事さぼるところ、初めて見たかもしれません」 「社員には内緒だよ」 社長は、いたずらするこどものような笑みで私を見る。 こいつ、こんな悪い顔もできるんだな。 私は少しおもしろくなって、持っていた書類をテーブルの上に置いた。 「コーヒー淹れましょうか?1時間以上ありますし」 「ありがとう」 私はコーヒーメーカーまで近づき準備を始めた。そんな私を見てか見ずか、背中越しではわからなかったが、社長の声ははっきり耳に届いた。 「父親は、きみになんていって入社させたの?」 「!それ、聞いてないんですか?」 「う~ん、たぶんね。正直、また父親が無茶なこと言い始めたなぁって思ったくらいで、ちゃんと聞いてなかったのもある。」 「えと……社長が知ってるのはどこまでですか?」 カップを用意しながら、私は意識は社長に向けた。ーーー無茶なことを言い始めた?今までも、なにかあったのだろうか。桐山亮太郎絡みのなにかが。 「さっきも言ったけど、きみのお母さんのこと、治療費の援助のこと、いずれきみのお母さんと再婚したいと考えてるとも聞いた」 「……私も、それは聞きました」 「お父さんは亡くなってるんだよね?俺の母親も、幼少の頃他界した。別に今さら親の再婚にどうこういうつもりはないんだけど」 私だってない。 もう自分自身成人してるし、母親が決めたことなら反対はしない。 カップにコーヒーを注いで、おぼんに乗せ、私は社長に近づいた。 「母のために、金銭的援助をしてくれていることは本当に感謝しています」 「俺はなにもしてないよ。それは父親の自由だ。きみが俺に感謝することじゃない」 ありがとう、と言いながら、社長はコーヒーを手にとった。まだ湯気がたっているので、口にはつけずに。 「でも、父親はきっと、無償で援助を申し出たわけじゃないんだろ?」 私は自分の分のコーヒーを持つ手が、ぴくっと揺れた。 社長はわかっているのか。自分の父親が、私を社長秘書にした理由を。 私が黙っていると社長は、鳴川くん、と名前を呼んだ。 「ごめんね~うちの父親、そういうとこあるから」 「……そういうとこ、って」 私は、自分がどんな顔をしているのかわからなくなった。 社長はコーヒーの入ったカップを口元まで近付けると、真っ直ぐに私を見て言った。 「大方、きみに俺の恋人になるようにとでも条件を出したんだろ?あの人は昔からそうやって、自分の物差しで決めた相手と、俺に恋愛させるようにしてるんだ」
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