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現実世界に次元を挟む異世界も闇を迎える。
その世界の向こうから、闇を切り裂く音がする。
この物語の主人公「レイ」は騎士として、長くこの地に居過ぎた。
レイの故郷には、ある年齢に達すると帰国しなければならない掟があった。
その掟の年齢を疾うに越しているのに、レイはまだこの地に留まっていた。
その理由は紛れもなく、愛があったからだった。
レイのその愛は、決して許されるものではない。
誰に言われずともわかっている。
けれど愛している思いを、今更消すことなど不可能だった。
主人である王の宿敵「オンディーナ」を愛してしまったのは、ある出来事がきっかけだった。
その日、隣国へ首脳会談に向かう王に伴って前方警護に就いていた。
その道中は順調に進み、国境の検問へと到達したときに彼女が現れた。
塔の上からかけられた声色は、まるでカナリアのように美しかった。
「止まれ!これより先、馬の立ち入りを禁じている。身分の別はない!」
馬車が通れないことは承知していたことだった。
彼女の指示を受けた形にはなったが、王は降り立ち僕に目線をくれる。
「レイ、他の者はここに立ち留まらせよ。お前は私と共に。」
主人の前に片膝を突き、それを拝命する。王の命は絶対だ。
そして僕は安全を隈なく確認してから、検問を通過した。
「オンディーナ、これを……。」
そう言って王は彼女に一輪の花を捧げた。青く輝く一輪の薔薇を。
塔から降りて来ていたオンディーナは、それを受け取る。
その指先は、儚いほどに白かった。薔薇の青が映えて、互いに引き立てるようだ。
「あっ!」
小さく叫んだ彼女の指から、真紅のものが。
棘があったのだろう……咄嗟にその指を口に含む。
何とも言い難い妖艶な光景だった……過去を追っても、このような女性に会ったことはない。
多分この時に、僕の心は彼女のものになったのかもしれない。
非対称的な色彩が、僕を惑わしたのかもしれない。
「おお、棘がまだ残っていたか……すまない。」
王は……もう既に止血されているだろう彼女の指先を、口へ含んだ。
それからの道のりは、あまり記憶にない。
ふらふらと地に足が付いていない感覚のまま、目的の城に到着した。
この国と我が国は、停戦状態だった。
オンディーナはこの国の女騎士らしい……近衛兵らしき人物と何か言葉を交わす。
王と僕は城内へと案内され、その後ろを彼女が来ていた。
「会合は明日、予定時刻にお迎えにあがります。」
近衛兵から告げられ、客室の一室に通されると僕は隣室の使用人部屋を案内される。
そばでかしずいていたオンディーナは、僕の目を見つめながら言った。
「私は王の警護を仰せ付かっていますので、何なりと。」
「……停戦相手の王ですから、きっと監視のためなのでしょう?」
「レイ、いいのだ。こちらには何も隠し立てすることもない。」
「御意。」
あのような言い方をしてしまったのは、僕に嫉妬心があったからだ。
僕の目を盗んで、この二人が二人きりになった時のことを想像してしまう。
あの薔薇は彼女の胸元に飾られ、より美しく魅せる。
夜通し王の様子を見張ることに徹しようと、心に誓いながらも心は動揺している。
怪談の間に仮眠を取れば済むことだ。僕はそう言い聞かせていた。
ところが、僕の思惑は全く違った方向へと転んでいった。
客室で休む王、何故か使用人部屋で二人きりになる僕とオンディーナ。
「あなた、名は?」
「レイ。」
「涼やかな美しい名ね、私はオンディーナよ。」
「……オン、ディーナ……君は、王の何?」
「え……ああ、そうね……愛人かしら。」
「あ?!あいじ……ふざけたことを言うな、王は独身だ。」
ムキになる僕を見て、彼女はくすくす笑った。
からかわれたのだと、すぐに気が付いた。
それから彼女と一晩中語り合い、騎士としての話に花が咲いた。
ただ興味深い話も聞いた。
彼女の故郷はこの国ではないと言うのだ。
僕の手を引いて、窓辺から足を踏み出し出窓の屋根へと跳ぶ。
「ほら、見て。」
彼女の指差す方角に、空を引き裂く月が見えた。
「あれは?今夜は満月のはず……。」
確かに頭上には、地上を照らす満月があった。
「エルオホと呼んでるの、あの境目の向こうが私の住む世界。」
「住む世界?この世界は一つじゃないのか。」
「ええ、レイの住む世界は一つ、私の住んでいた世界も一つなのよ。」
話がよく見えなかったが、よくよく聞いてみると薄っすら理解した気になった。
惚れた弱みなのだろうか、理解し難い話でも理解したと言いたいのだ。
(気に入られたい馬鹿な考えだろう)
あの空を引き裂く月の正体は、向こうの世界へと続くらしい。
そこは異世界と呼ぶべき場所。
僕の世界がそうなのか、彼女のいた世界がそうなのかは言い尽くし難い。
「オンディーナ、君は向こうの世界の人間なのか?」
「そうよ、帰れるその時までこの国で騎士として雇われてるの。」
「王は、そのことは?」
「知ってるわ、私が話したの……それで私にいつも薔薇を贈ってくださる……
願いが叶うようにと。」
「願い……君は帰りたいのか……元の世界へ。」
僕の問いに答えなかったオンディーナは、憂いを秘めた瞳を輝かせていた。
元の世界へ帰ってしまったら、僕は想い人に会うことすら叶わなくなる。
この現実を知らしめられて、彼女を抱きしめてしまっていた。
「……帰らないでくれと言ったら、君はどうする。」
抵抗することもなく、ただ僕の腕に抱きしめられたままだ。
長い沈黙の後、彼女は僕の耳元に口づけ囁いた。
「それでも帰ると言ったら、レイはどうするの?」
彼女の妖艶な振る舞いは、まだ愛を知らない僕を戸惑わせるばかりだ。
王との関係をはぐらかされ、まだ何も生まれてやしない男相手に色香を振りまく。
僕は何も答えられなかった。
その時に感じていた高揚感が、何者なのかもわからなかったせいだ。
翌朝、近衛兵が呼びに来て会談が始まった。
それは日暮れまで長時間に及び、そして決裂した。
帰途につく王の行列の先頭に立ち、僕は騎士としての役目を全うする。
無事に国へ戻ると、王は戦闘の準備に入った。
愛しい人のいる国との戦いが始まってしまう。
王の思いは推し量ることも、訊ねることも雇われ騎士の僕にはできない。
そして、僕自身の抱える掟の期限が迫っていた。
25になる歳の秋に、故郷へ帰らなければならない。
オンディーナと僕は、あの夜、ある賭けを立てた。
再び満月の夜に、エルオホを壊しに行こうと……壊すことができたなら、
オンディーナは帰るべき故郷ではなく、僕の故郷へ行くと。
それが敵わなかったら、僕は僕の、オンディーナはオンディーナの世界へ帰ると。
果たしてそんなことが可能なのか……全く予想がつかない。
僕が正真正銘の騎士なら、きっと壊せると彼女は言った。
次の満月まで、ひと月ある。僕は書庫に通い、エルオホについての文献を探した。
長い歴史を持つこの国の国家書庫は莫大な広さを誇り、尋常じゃない本の山だ。
とても一人で調べきれる量ではなかった。
王の配下にある軍は、着々と戦闘準備を進めている。
戦争になれば多くの国民を犠牲にしてしまいかねない。
この地を戦闘地にするわけにはいかない……1日でも早く進軍するだろう。
時間との闘いを一人繰り広げている間に知らせが入った。
とうとう王はこの国を守るため進軍するとのことだ。
進軍は深夜のうちに始まり、国境付近に陣を置くらしい。
城に残る王の警護のため、僕は騎士としてここに留まることを許された。
まだ数日の猶予を与えられ、著書の読了に勤しむことが出来て多少の安堵を感じた。
そして戦いは長期に渡り、オンディーナとの約束の日を迎える。
丁度その頃になると、我が国の勝利も近いという報告が上がって来ていた。
流石は王配下の軍である。
士気は高く、高度な訓練を行って来ていたのを知っている。
城内はというと、スパイの侵入も考慮にいれ警備は厚く硬かった。
そんな中、国に対しても王に対しても裏切りの行為をしているのは僕だけだっただろう。
敵である国の女騎士と逢瀬を目論んでいるなど、警備隊にバレてしまえば僕の命は危うい。
エルオホの破壊が巧くいかなかったとしたら、危険を背負っている意味を失ってしまう。
オンディーナとの賭けに僕はどうしても勝ちたい思いが強くなっていった。
今までの僕はたった一人の女性のため、寝食も忘れて没頭することなど考えられなかった。それがどうした……僕のこの集中力は、どこから湧いてくるのか。
愚かな僕でも理解が出来た。
僕はオンディーナを心から愛していたのだ。
あの柔らかな体を、もう一度この腕の中にと願わずにはいられなくなっていた。
たとえ王がさえ、彼女を欲しているとしても関係ない。
彼女は僕と賭けに出たのだ……それを譲るわけにはいかない。
必ず成功させたい、しなければならない。
王の出立は早朝の薄暗いうちに始まるという。
僕はその前に城を抜け出した。
馬の蹄が地を蹴る。
満月を背にして、アカシアの木を目指す。
荒野の中、長い年月に立つアカシアの雄姿。
彼女はその木の陰に佇んで、エルオホの方角を眺めている。
「オンディーナ。」
「……レイ、約束、守ってくれたのね。」
「ああ、とうとうこの日が来たんだ。君を僕の故郷へ連れ去る日が。」
「あら、自信たっぷりじゃない。」
「勿論。今日の為、あらゆる著書を調べ尽くしたんだ。」
オンディーナの微笑みを、月光が照らす。
真紅の唇が弧を描くその様が、僕の視線を釘付けにする。
「……待って。約束が果たされるまでお預けよ。」
透き通る程に白い指先が、僕を制した。
そして、黙って頷く僕のこめかみに唇を寄せて呟いた。
「愛は貴方と私、二人の思いにきっと輝く。」
呪文のような、合言葉のような言葉だ。
時間を食って、裏切りを知られて、追手が迫れば元も子もない。
僕と彼女は再び馬を急ぎ走らせ、目的の裂け目エルオホへ向かった。
書庫の奥に見つけた埃だらけの本に、興味深い記述のあった話をする。
題目は何も書かれていなかったせいか、誰の目にも留らずあったかのようだった。
”時空の狭間に追われた勇士の涙が溢れ、そこに生まれた救い”
”世界を隔てる憎しみ、哀しみに侵された島”
”やがて涙は枯れ、真の勇者が生まれるであろう”
「これはエルオホについて書かれているに違いないと思ったんだ。
本の最後のページには、満月が描かれ、そして……。」
「そして、何があったの?」
「黒く塗りつぶされた月。なんと、その二つを重ね合わせると微妙に隙間が出来てしまう。恐らくそれがあの三日月に見える裂け目、エルオホなんじゃないか。」
「成程、そういうこと……そして、どうやってエルオホを壊すことが出来るの?」
「それは僕も行ってみないとわからない。でも、きっと僕はやってみせる。この薔薇に誓って。」
「えっ、それはいつも彼が贈ってくれていた青い薔薇じゃない!どうして?!」
驚くオンディーナ。無理もない……詳細は伏せたまま僕は馬を走らせた。
30分程経った頃、僕と彼女は馬を止めて労った。
息を切らす馬に、これ以上無理はさせられない。手綱を取り外すと任を解いた。
二頭は僕たちを振り返らずに、来た道を戻って行く。
あの馬が国に到着するまでがリミットだ。
だがエルオホはもう目の前だ、ここから先は二人歩いて向かう。
柔らかな風を受け、僕たちはようやく辿り着いた。
眼下に広がるのは、広大なエルオホだ。
「心の準備はいいかい?」
「いいわ……もし失敗したとしても、レイのことは恨んだりしない。」
「くすっ、恨まれるのは御免だ、失敗なんかしない。これは互いに信頼し合うことが重要なんだ、さあ、この薔薇を受け取ってくれオンディーナ。」
変わらぬ淑やかさで、その薔薇を胸に寄せる。
そして手を繋いだまま、僕たちはそこ目掛けて飛び降りた。
途端に青い薔薇から放たれる閃光が、辺りを明るく導いて行く。
じわりとその光の中に吸い込まれ、緩やかな速度へと変わった。
暖かく、穏やかで、恐怖もない。
勇士の涙で浸された島が、迎え入れてくれているようだ。
くるくると旋回を始める体と体が絡み合い、もつれ、そして抱きしめ合った。
意識は混濁とし、そして無意識の中、僕は初めて彼女に愛を告げた。
「愛してる、オンディーナ、とても。」
「私もよ……レイ、愛してるわ。」
「愛は貴方(貴女)と私(僕)、二人の思いにきっと輝く……。」
生きているのか。
命を賭けて守った愛は、二人に輝いたのか。
春の陽射しに当てられて、眩しさだけが見える。
僕の故郷は。
エルオホは……。
王は。
軍は。
どちらが勝ったのか。
勝ったのか……?
僕は彼女との賭けに勝ったのか。
彼女……?
オンディーナ、オンディーナ、オンディーナ。
「オンディーナ!!」
「……レイ……」
「あ……愛してるよ。」
「そうね……私の涙も枯れたみたい。」
二人、くっ付いていた体を確かめ合うように、きつく抱きしめ合う。
ここがどこかなんて関係ない。
愛する人が目の前にいる、それだけで十分だ。
ようやく許されたキスを交わして、幸福が二人を包む。
青い薔薇が起こした奇跡だった。
王はオンディーナの願いが叶うようにと、薔薇を贈っていた。
きっとご存知だったのだ。
王は、王でなかったなら……ここにいたのは王だったのかもしれない。
オンディーナを独り占めしていたのは、僕じゃなかったのかもしれない。
エルオホほどの隙間が、運命を変えてしまうのだろう。
それぞれの思いを心に刻み、手にした愛を語り継いで行こう。
「僕でよかったのかい?勇者になる役目は……。」
「ふふ、どうかしら、知らないわ。」
小悪魔的な笑みが、僕を誘惑する。
知らないと言った先から、愛を確かめ合うようなキスを繰り返す。
僕はそんな君も大好きだと、心から思う。
君を守ることは僕にしかできない特権だ。
青い薔薇に誓って、これからも、ずっと。
終わり
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